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三十五年目のラブレター 第25話

「まあ、そういうわけで、結局宮脇さん宅には行けませんでした。明日もう一度行ってみようと思います」
 島崎の報告に、吉井がコーヒーと共に「お疲れさん」とねぎらいの言葉をかける。
「若い女の子たちと夕飯ってのもたまにはいいもんだろう」
「ジェネレーションギャップでげっそりですよ。一気に三年分くらい老け込んだ気分です」
「島崎と大して変わらん年齢だろうが」
 ハハハと吉井は笑うが、世代の問題ではなくて文化の違いなのかもしれない。
「川畑さんとドーナツ食ってる方が気楽でいいですよ」
「川畑さんとなら何食っても旨いだろうよ」
 どうやら吉井も川畑が気に入っているらしい。
 それはそうだろう、あれほど仕事ができて回転の速い女性など、島崎は川畑の他には知らない。だが、彼女が絶望的な方向音痴なことは吉井でも知らないだろうと思うと、島崎は少々優越感を覚えた。
 そもそも吉井のように、仕事ができて物腰も穏やかで容姿も完璧で紳士的な男が、いつまでも独身貴族なんか続けているのがいけないのだ。「こういう男がいつまでも結婚しないから、いい女が回ってこないんだろうが、とっとと落ち着いてしまえ」などと、島崎は心の中で呪詛の言葉を吐き続ける。
「どうですか、匿名投稿者、わかりましたか?」
 この短時間に見つけるのはいくらなんでも無理だろうと思いつつも、聞かずにはいられない。何も言わずに吉井の方から言ってくれるのを待つほど、島崎は人間ができてはいないのだ。
「当然。うちのサイバーなめんなよ」
「えっ? 本当ですか?」
 吉井は一時期サイバーの応援にも行っていたため、あちらにも顔が利く。吉井の頼みとあらば多少の無理が通ることもあるのだ。
 島崎にとっても、悔しいくらい吉井は頼りになる男なのである。
「一番最初が七月十四日。場所は江戸川区の小岩五中近くのネットカフェ」
 小岩? 内藤きよみの家の近くか?
 怪訝な顔をする島崎に、吉井はニヤリと笑って後を継いだ。
「名前は小岩五中だが、住所は鹿骨《ししぼね》。柴又街道を挟んで篠崎の隣だ」
 篠崎!
「桐谷の家からは僅か一キロ。徒歩圏内だ」
「でも、桐谷の家の近くというだけですよね。桐谷と決まったわけじゃない」
 一瞬腰を浮かした島崎が思い直したようにゆっくりと言葉を選ぶのを見て、吉井は「ほう」と少し驚いたようにしつつも頷いた。
「少しは大人になったな、島崎」
「西川の性的嫌がらせの被害に遭った人たちの話を聞けば聞くほど、桐谷から離れて行くんですよ。彼は彼女たちを止めようとしていたんです。これはもしかすると、桐谷に被せようとした誰かが、わざと桐谷の家の近くのネットカフェから匿名投稿していたのかもしれない」
 コーヒーを口に含む島崎の横で、眉間をつまんで「んー」と吉井が唸る。
「無くは無いな。まあ、現在ネットカフェの方に当日の防犯カメラの映像を見せて欲しいと、協力要請しているところだ。一ヵ月分しか残していないと言っていたから、あと数日遅れていたらデータは残らなかったかもしれない。不幸中の幸いだ」
 吉井は自分の机から何かを印刷した紙を持って来ると、島崎の方に差し出した。
「これがそのネットカフェからの同日同時刻に作成されたアカウントの一覧だ。どうやら匿名投稿者は同じ店の同じパソコンから一度にいくつものアカウントを取得し、そのたくさんのアカウントを使って匿名で投稿したらしい。一番上のが最初に登録したやつだ。それで匿名告発をし、次に作ったアカウントで別人に成りすましてMe tooタグをつけて拡散。更に別のアカウントを取得して、それを使って拡散。その調子で、そこに並んでいるアカウント全てで告発したようだ。ま、たくさんの反応があればそれだけ人目につきやすくなるからな。それを狙って拡散用のアカウントをたくさんとったんだろう」
「その中のどれかに渡部ヒカルが食い付き、それを見た遅塚亜夢が食い付いた。そしてその報告を受けた望月奈絵が便乗した。望月奈絵が食い付くころには、既にかなり拡散されていたようで、それを見た西川の元秘書が訴訟を起こすと言い出した。そういうことですね」
 それにしてもかなりの数がある。一体いくつのアカウントを取ったのだろうか。ざっくり五十くらいはありそうだ。
「これ、同じ日に同じパソコンからこれだけのアカウント登録があったら、明らかに怪しいじゃないですか」
「ああ、だから、自分の手を離れて勝手に拡散されて行ったのを見計らって、これらのアカウントは殆ど自分で削除している。ここに並んでいるアカウントで、現在残っているものは一つとして無いらしい」
 なるほど、最初だけ自分で動き、あとは周りが食い付いて炎上するのを待ってひっそりと撤退したということか。
「そのアカウント名、よく見てみろ」
 吉井に促されて眺めてみるが、誰か人名のようだということがわかるだけで島崎の守備範囲ではないらしい。
 ・Toulouse_Lautrec
 ・Aubrey_Beardsley
 ・Eugene_Grasset
 ・Jan_Toorop
 ・Egon_Schiele
 ・Emile_Galle
 ・Alfons_Mucha
 ・Gustav_Klimt……
「吉井さん、読んでくださいよ。俺、日本人だから読めません」
 吉井がハハハと笑って紙を受け取る。
「トゥールーズ・ロートレック、オーブリー・ビアズリー、ウジェーヌ・グラッセ、ヤン・トーロップ、エゴン・シーレ……」
 ――エゴン・シーレ? どこかで聞いた事がある。
「エミール・ガレ」
 ――待て、何か引っかかる。その名前、つい今しがた聞いたぞ。
「アルフォンス・ミュシャ」
「ミュシャだって? その次は?」
「グスタフ・クリムト」
 ―クリムト!
「吉井さん、これ、芸術家ですか? もしかしてアールなんとか」
「アールヌーヴォーだ。アールデコってのもあるからな、『アールなんとか』ってのはやめろ」
 吉井はのんびりと近くの椅子に腰掛けると、言葉を続けた。
「アールは芸術、アートの事だ。ヌーヴォーは新しい。新しい芸術という意味だ。ボジョレーの新しいワインをボジョレーヌーヴォーって言うだろ」
 吉井が「常識だ」という顔で話すのを見ながら、島崎は自分とのギャップに内心悶絶する。どう逆立ちしてもこの男には勝てそうにない。
 アールってどこの言葉だ。ボジョレーヌーヴォーって言うくらいだから、これはフランス語か。
「アールヌーヴォーのアーティストに詳しい人間は誰だったかな?」
「えっ、まさか中橋? いや、でも、中橋には西川を陥れる理由が無い。……とは限らないか。ちょっと待ってください、これが中橋なら何故?」
 混乱する島崎に吉井が笑いかけた。
「その裏を取るのが刑事だろ?」

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