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三十五年目のラブレター 第28話

「何度もすみません。一遍に話が出て来ればいいんですが、あちこちから細切れに話が出てくるものですから、こうして何度もお話を伺う事になってしまって」
「いえ、いいんですよ。上がっていただきたいところですが、ちょっと荷物が届きまして、家の中が足の踏み場もないものですから」
「とんでもありません、すぐ終わりますからここで結構です」
 昼前、綱島から真っ直ぐ篠崎へ向かった島崎は、桐谷のアパートの玄関先に居た。もしも桐谷が犯人なら、ここに川畑はいるはずだ。島崎の声が聞こえれば、何らかのアクションがあるかもしれない。
 だが玄関には女性用の靴は無く、彼のものと思しき革靴と傘が置いてあるだけで、部屋の奥の方までは見えない。ここから見た感じでは誰かがいるような気配は感じられない。
「先程、宮脇さんのところで伺ったんですが、恵美さんが亡くなる数日前の日曜日、サークルの同窓会があったそうですね」
 桐谷は一瞬考えてから「ああ」と思い出したように言った。
「ええ、ありました。中橋君がギャラリーをオープンするとかで、そのお祝いを兼ねてサークルのメンバーが集まりました」
「全員ですか?」
「ええ、全員です」
 桐谷は訝しげに島崎を見上げた。何故そんなことを聞くのかと顔に書いてある。
「その時、恵美さんに変わった様子はありませんでしたか?」
「は? 恵美ですか?」
「はい」
「何故今頃になって恵美の動向なんかが必要になるんですか?」
「風が吹いたら桶屋が儲かったり、ブラジルで蝶が羽ばたくとテキサスで竜巻が起こったりするんです」
 一瞬の間があって、桐谷がクスリと笑った。
「なるほど、ラプラスの悪魔に魂を売るんですね。あの日の恵美はいつもと同じでしたよ。中橋君とは久しぶりに会ったので盛り上がっていました。彼女も楽しそうにしていましたよ」
「同窓会では特に変わったことは無かったということですね」
「ええ」
 嘘をついている顔ではない。島崎は確信した。
「帰りはどうでした? 二次会は行かれましたか」
「ええ、みんなで二次会に行きました。ですが、僕は二次会の途中で学校から連絡があったんです。僕が担任をしているクラスの生徒が万引きで補導されまして、呼び出されたんです。ですから帰りは一緒ではなかったんですが、中橋君が同じ方向だったので彼に送って貰うように頼みました」
 ん? その頃はまだ携帯電話は普及していなかったのでは?
「どうやって連絡が来たんです?」
「ポケベルですね。全員持たされていました」
 ポケットベル。島崎にとってそれは『歴史』の一部でしかない世界である。ポケベルを生で見たことの無い島崎には、教科書の中で見た昭和の遺物として認識されている。
「では、恵美さんは中橋さんと一緒に帰ったんですね?」
「間違いありません。翌日連絡したら、中橋君と一緒に帰ったと彼女の口から聞きましたから」
「そうですか。わかりました。ありがとうございます。お忙しい中、何度もすみません」
「いえ、ちょうど良かった、あと二分遅かったら家を出ていました」
「お出かけですか?」
「ええ、ちょっと急ぎの用があって」
 そう言うと桐谷はドアに鍵をかけた。
「島崎さんはこれからまた別の所に聞き込みに行かれるんですか」
「ええ、まあ。その前に署に報告を入れないと」
「暑いのに大変ですね。それでは僕はこれで」
 桐谷は駅の方とは反対側に向かって歩いて行った。島崎は密かに桐谷の後を追った。どこへ行くのだろう。
 彼は近くの月極駐車場に入ると、その中の軽自動車に乗り込んだ。島崎は桐谷に見つからないようにこっそりと車の写真を撮ると、再び物陰に身を潜めて彼の車が出て行くのを待った。
 彼の乗った車が完全に見えなくなったところで、島崎は大急ぎで桐谷のアパートに戻った。どうしても確認したいことがあったのだ。
 彼は近くに人がいないのを確認すると、ドアをノックした。
「桐谷さん! 桐谷さん! お荷物のお届けです、いらっしゃいませんか」
 あの食材の量。トマトにナス、ピーマン。誰かがいるに違いない。
「桐谷さん!」
 だが、声もしなければ中で人が動く気配もない。本当に誰もいないのだろうか。島崎は意を決して、小声で呼んでみることにした。
「川畑さん、俺だ。島崎だ。居ないのか? 川畑さん」
 息を殺して反応を待つ。体を拘束されていても、何らかの音は出せるはずだ。
「川畑さん、本当に居ないのか。居たらなんでもいい、何か音をさせてくれ! 川畑さん! ……『志織』!」
 三十秒経った。これ以上は危険だ。島崎は仕方なくその場を離れた。
 ここでないなら、彼女は一体どこにいるというのか。
 彼は足取りも重く、駅へと向かった。

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