ONE 第四十六話 唯一の例外
我にかえったシドが時計に目をやると、すでに真夜中だった。秒針が時を刻む音だけが静かな室内に響く。消し忘れた仄かな灯りが、シドと、そしてジェイの顔を照らしていた。
飲み残された赤い酒の反射光。ぬらぬらと狂気に誘う色を目にしたシドが、診察鞄に手を伸ばした。取り出されたのは、薬包紙に包まれたあの劇薬。致死量のきっちり二倍。間違いなく死ねる量だった。
身体を起こしたシドが、ジェイの顔を覗きこむ。
「ジェイ」
そっと囁く。愛しげに。ただ一人の自分の神に。その耳に、瞼に触れる。そして唇に。
『お前は死なないよ』
そんなことを言ったね。貴方のいない日々など、私には拷問でしかないのに。
シドの頬に静かに涙が伝い落ちた。冷たい唇に口づける。自分だけのものにしたくて。自分だけを愛してほしくて。抑えに抑えていた想いを込めて。
今ならば、この想いは誰にも止められない。誰にも。ジェイにすら。ずっとこうしたかったのだ。
飲み残されたワインの上で薬包紙が広げられた。ペーパーナイフを取り上げたシドが毒の粉をかき混ぜる。
しかし、シドの手は突然鳴った呼び鈴の音に押さえつけられた。そこに、見えない意思が働いたかのように。
◇
「遅かったか……」
そう呟いたのはロイだった。
ロイは、ジェイの遺体の前でじっと瞼を閉じていた。シドの心が哀しみから憎悪に切り替わる。もっとも憎むべき男が、いま目の前にいるのだ。
全てを失ったシドのなかに、ぽつりと誘惑が浮かんだ。
これは私に与えられた復讐のチャンスかもしれない。ロイの前で死ぬ。これほど残酷で魅力的な終わらせ方があるだろうか。
すっと振り返ったロイは、なにも言わずに居間に足を向けた。グラスを手にしたシドがその後を追う。
彼の心はもう、完全に狂気に支配されていた。
「ワインでもいかがですか?」
感情を映さないシドの声。それが居間の奥からゆっくりと近づく。テーブルには二つのグラスが置かれた。一つは、解放に向かう切り札だった。
グラスではなく、ロイはシドの顔を見た。その表情はどこか哀れみを含んでいる。
「間にあったのか?」
「いえ……」
「そうか。嫌な予感ほど当たるものだな」
独り言のように呟いたロイが隣の寝室に目を向ける。
その瞬間をシドは逃さなかった。そっと、自分でも驚くほど冷静にグラスに手を伸ばした……が。手はグラスの手前で止まった。いや、押さえつけられていた。
「死ぬのは簡単だ。少佐」
特殊能力で抑え込まれ、シドは微動だに出来なかった。顔を逸らしたまま、ロイが説明を付け足す。
「君が自殺を考えていることは知ってたよ。あんな目立つ棚に、劇薬の瓶を置くべきではないな」
シドは瞼を開けていることしか許されず、声を出すことすら出来ない。
「いい事を教えてやろう」
ロイの低い声が、容赦なくシドの耳に捻じ込まれる。
「ジェイは要領がいいように見えて、本当は馬鹿がつくほど不器用なんだよ。何か一つを手にしようと決めると、未練も一緒に他を切り捨てる。そうしなければ本物を手に出来ないと信じ込んでいたんだ。その彼が、なぜ最後まで君を捨てなかったと思うか?」
シドの心は激しい怒りで煮え滾っていた。沸騰する憎悪が視界を血の色に染め上げる。
なぜこいつに、こんな話を聞かされなければならないんだ! なぜ卑怯な手段で、最後の望みすら取り上げるんだ!
だが。ロイはシドの心情など一切無視した。冷徹で非情な最高司令官そのままに、淡々と事実を告げる。
「出来なかったんだよ。あの頑固者の完璧主義者が、『唯一の例外』をつくってしまったんだ」
唯一の……例外?
あまりの衝撃に、シドの思考が止まった。
──さあ、認めなさい。あなたが最後の浄化する者です。彼に託しなさい。これまでずっと、あなたの祖先がしてきたように。
ロイの脳裏に、あの『声』が反響した。
束ねるものの意思を伝えるのは、かつての王女。最初の生贄の声である。
彼女の名はアーリッカ。どんなに優れた画家でも描き出せなかった美の化身。この星の海に泡と消えた『告げる者』。
ロイはその声に従うと決めた。抵抗が無意味であることを認めるしかなかったのだ。しかし、彼には最後にしなければならないことがあった。導く者を生かすために、しなければならないことが。
「少佐。いや、ドクター」
ロイのトパーズの瞳が潤んだように見えて、凍り付いていたシドの感情が動いた。
「人を診るよりも、まずは自分に訊いてみるのだな。その結果がこの方法しかないのなら、私はもう止めない。ジェイの魂のために生贄が必要なら」
そう言うなり、ロイがシドの側に置かれたグラスを手にした。意味を察したシドの顔から、一瞬で血の気が引く。
百年目の最後の生贄。ロイが一気に毒をあおった。
顔を背けることすら出来なかったシドが力から解放されたのは、ロイが息絶えてのちのことだった。
欲しいものは奪う。ロイは己の望むままに死を奪い取った。安息の地は、ロイの最後のよすが……彼のことをずっと待っていてくれたジェイのもとだった。
◇
シドはロイ毒殺の容疑で拘束されたが、ロイの弁護士から提出された遺書によって嫌疑が晴れ、釈放された。
そしてシドの辞意を認めなかった軍は、彼に基地での地上任務を命じた。
いまシドは、医務室の窓から閑散とした滑走路を眺めている。冬の日には珍しいほど空は綺麗に晴れていた。
あの日からシドのなかでずっと鳴り響く言葉がある。
──唯一の例外。ロイが置いていった遺言。
シドの大きくえぐれてしまった心では、その意味は理解できない。退屈すぎる時間が、欠けた心の上を無為に通り過ぎてゆく。
「ジェイ」
呟いたシドの顔は笑っていた。それはいつもの苦笑ではなく、どこか幸せに満ちた歪んだ笑みだった。
◇
航行中の空母に搭乗していたカツミのもとに、二つの訃報が届いた。覚悟していた訃報と、あの日の微かな警鐘を裏付けた訃報が。皮肉なことに、父の死に場所がジェイの別邸だったため、ジェイの死も併せて知らされたのだ。
少しのあいだ彼は泣いた。しかしすぐに全ての悲しみを捻じ伏せて顔を上げた。
「ジェイ」
その名は生きるための希望。呟くだけで行く手が示される羅針盤。道具ではなく人として無条件に愛された記憶は、カツミの生きる拠り所となった。
──束ねるものと出会いなさい。これから連綿と続く、この国を束ねてゆくものと。そのものの指し示す事々に従いなさい。この混沌を救う神に出会いなさい。
──導く者。カツミが自己を受け入れ能力の封印を解く時、その声は彼に届く。
本心を炙り出す鏡。百年かけて磨かれた鏡に、最初にいのちを映した人物。
それが、ジェイ・ド・ミューグレーだった。
──『ONE』第一部 了──