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ONE 第三十二話 余命と影絵

 呼び鈴を鳴らすとすぐに、重厚なドアが開けられた。流れ出る温かな空気。包みこむ大きな腕。カツミに頬ずりするジェイの瞳が、眼鏡の奥で細められる。

「寒かったろう? 居間に暖炉があるから、先に行っていいぞ」
 指し示された方に顔を向けたカツミを、ジェイが再び引き留めた。額に落とされるキス。されるがままになっていたカツミが、くすりと笑みをもらす。
「連絡も寄越さないで薄情なやつだな」
「ちょっとね。ジェイなしで何日持つか試してたんだ」
「それで?」
「その日の夜から駄目だった」

 呼び鈴が鳴った。素っ気なく返したカツミが、音に背中を押されるように居間に足を向ける。
 まさかシドに遠慮してる? カツミが? 意外に思いながら、ジェイがカツミの背を見送っていると、今度はコツコツとドアを叩く音に急かされた。出迎えたシドは両手に大きな荷物を抱えている。

「寒いんだ。早く開けてくれよ」
「悪い。大荷物だな」
「まめに料理してるか、点検の必要を感じたんでね」
 馴染みの皮肉はいつもより冴えがなかった。
「信用ないんだな」
「まあね。キッチン使わせてもらうよ」
 重い紙袋を半分取り上げたジェイが、料理をリクエストする。
「消化のいいのをお願いしたいな」
「そのつもりだよ。仰せの通りに」

 軽口を叩いたシドだったが、厨房に入るなり鞄から箱を取り出した。並ぶ鎮痛剤の薬液。そして、劇薬表示。
「持続点滴と迷ったけど、それだと生活に支障が出るから。自己注射が難しいようだったら他の方法に変える。用法は絶対に守って」

 シドがジェイに手渡した紙袋には、使い捨てのシリンジ(注射器)がぎっしり詰め込まれていた。本来ならその都度医師が行うことである。入院も往診も拒否したジェイへの、苦肉の策だった。

「主治医は私に交代した。最初に聞いていいかな」
「なんなりと」
 畳みかけたシドにジェイが顔を向ける。
「この先、入院する気はあるのか?」
「ない」
 きっぱりと断言が返った。ジェイの決意が揺らがないことを視線で悟ったシドが、ひとつ吐息を漏らす。

「……わかった」
「理解のある主治医で助かったよ」
「まあね。軍で支給された時計、持ってるよね? バイタルデータを毎日送信してくれ」
「善処するよ。ドクター」
 荷物を片づけながら、ジェイが気のない返事をした。
 医者泣かせの患者だよと文句を言いながら、シドが話題を変える。

「夕食のメインは海老のリゾットにした。仕込みはして来たからすぐにできるよ。カツミのとこに行っといてくれないかな。できたら呼ぶから」
「頼んだよ、主治医殿。ワインは白でよろしく」
「はいはい」

 特区併設の病院に出向いたシドは、ジェイの元主治医から所見を聞いていた。長くて三か月という見立て。だがそれは、入院加療して最先端の対症療法を行った結果である。

 シドはジェイに関する見通しを脳裏で整理した。
 ジェイが苦痛を訴えることはないだろう。標準治療なら、とっくに無菌室行きだ。そんなのは真っ平ごめんだと思っているに違いない。
 とにかく要観察で診て、近いうちに今後の治療方針をきちんと決めるしかない。自分にできるのはここまで。その先は……。

 シドがちらりとドアに視線を送る。分かっていたとはいえ、もう既にいたたまれない気持ちになっていた。

 ◇

「来月?」
「うん。月末になると思う。他はもっと早いけど、うちは例のクローンが調整段階だから」
「使える見込みがついたのか?」
「うん。シスを使うって」
 カツミの説明を聞いたジェイが眉をひそめた。『聞く者』であるクローンにシスを使用するなど、あまりに馬鹿げているからだ。過敏に他者の意識を拾い、幻覚に襲われるかもしれない。下手をすると発狂させることになる。つまりは使い捨てなのだ。

 正確な情報を入手できるジェイにはすぐに分かった。クローン開発は莫大な費用を必要としたが、既に元手は回収済みなのだ。今回のシスの使用は、厄介者のクローンの処分と、シスの薬効をさぐる実験を兼ねているらしい。将来的には、この国でも特殊能力者にシスを使用する日が来るかもしれない……。

 カツミとジェイは、石造りの大きな暖炉の前に座っていた。パチパチと爆ぜる薪が珍しいのか、カツミは飽きもせず炎を見続けている。微笑みながら、ジェイがカツミに確かめた。

「来週も来るか?」
「来たばかりなのに、もう来週の話?」
 返事の代わりに、ジェイが目を細める。
「もちろん来るよ。これが案内してくれるし。2ミリアは長いけど」
「それくらいは我慢してもらいたいな」
 カツミが取り出したナビカードを見て、ジェイがゆっくり立ち上がった。
「思い出した。いい物をあげるよ」
 隣の部屋に行ったジェイは、一枚のカードを手に戻って来た。

「なに?」
「お前がいつも乗ってる機にセットできるんだ。教官と乗った時にも使ったろ?」
「あのマニュアル?」
「お前用に作り変えてる。死にに行かないためにな」
 悪戯っぽく微笑むジェイを見て、カツミが頭を抱えた。
「最初に会った時のこと、まだ覚えてんの?」
「当然。忘れるわけがないだろ」

 拗ねたカツミに笑みを見せ、ジェイが腰をあげる。
「そろそろ手伝いに行かないと、いいだけ毒を盛られそうだ」
「ジェイ!」
「お前は座っとけ。皿を割られると面倒だ」
 容赦なくからかわれたカツミは、もう黙るしかなかった。シドとは違い、サーヴなどとても無理なのだ。

 頬を膨らませたカツミだが、内心ほっとしていた。ジェイが、いつもとなんら変わらなかったからだ。このまま受け止めようとカツミは決める。受け止めよう。自分に素直になろうと。

 巡らせていた氷の壁は、いつのまにか溶けて水になっていた。無防備にこの身をさらしても、少しも怖くない。恐るおそるでも歩を踏み出せば、霧が晴れるように進む先が見通せる。自分が恐れていたほど、この世界は寒くないのかもしれない。

「カツミ」
 ジェイの声に手を引かれるようにして、カツミが立ち上がった。
 欲しいものを掴むことは、砦を出る覚悟をすること。自分のなかに逃げ込んでしまえば、傷を受けることも与えることもない。そこに居続けることは容易い。孤独に慣れてしまえばいいのだから。
 しかし、カツミはもう後戻りが出来なかった。そして、する気もない。

 透明なプリズムに色が差す。色を得ることは混沌を知ること。色を得ることは濁りを知ること。
 感情のなかには多くの色がある。自他を受け入れるということは、清濁を越えることなのだ。嘘のつけない子供にも白い嘘を知る時が来る。

 その時。暖炉の炎に揺れるカツミの影が、あらぬ方向にゆらりと揺れた。まるでそこに意志があるかのように。