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ONE 第四十四話 こころと共に

 カツミの部屋の気配を探っていたルシファーは、部屋主が不在なことを知るとベッドの上にどさりと身体を投げ出した。残された時間はわずか。カツミはジェイのもとへ行ったのだろう。嫉妬したところでどうなるものでもない。嫉妬なのかどうかも分からない。
 探っていながら、ルシファーはカツミに翻弄されていることを認めたくなかった。自分を動かせるのはフィーアだけだと思っていたからだ。

 特区入隊の時、ルシファーは少々強引な根回しをしている。セルディス家と深い繋がりのある人物に、特例の赴任を頼み込んだのだ。
 フィーアのことを羨望し、同化を望んだ日々。抑えつけた想いが、いつもルシファーを翻弄していた。
 だが、フィーアは逝ってしまった。行動しない限り、求めるものを掴むことは出来ない。それに気づいたのは彼の死を知った後。全てが終わった後だった。

 心の空白を復讐で埋めることが、どれだけ愚かであるかを、ルシファーは思い知らされていた。こんな結末に自分が追いやられるとは思ってもいなかった。この先、どれだけ時間という武器があっても、あの二人の間には入り込めない。
 挑むようなカツミの瞳がよみがえる。自分は遊びの対象としてしか見られないのだ。当然だろう。今さら何を言ったとしても、自分の想いは誤算であって、後づけの事実に変わりはない。

 ただルシファーが得たこともあった。初めから本当の気持ちをぶつけて良かったのだ。カツミはそれに真っ直ぐ応えてくれた。弱みにつけこみ、卑劣な手段を使っても、彼は逃げなかった。
 カツミがどんな状況にいるのか、ルシファーは全て知っている。承知の上で逆恨みをぶつけたのだ。なのに、カツミは目も逸らさずに向けられた矢を掴んだ。

「やっぱり強いよ。皮肉じゃなくて本当に」
 その強さのわけをルシファーは知りたかった。他人の裏側を当たり前に『聞いて』きたルシファーにとって、『聞けない』相手の心を推し量るのは至難の技である。

 カツミの見せる顔は意外性の連続なのだ。
 達観したような冷静な顔。感情を感じさせない不安を煽る顔。葛藤に支配された泣き笑いの顔。絶望に満ちた自棄的な顔。強い意思を感じさせる熱を感じる顔。そして、それらとはまるで違う妖艶な顔。
 ルシファーにとってのカツミは、もう既に惹きつけられてやまない存在だった。その彼が全ての葛藤を捻じ伏せ、いま確かに生きる意味を見出している。ぎりぎりの境界線の上で……。

 見つめていこう。そう結論を出してルシファーは自分を納得させた。そうせざるを得ないものに触れてしまったのだから。それしかないのだからと。
 選んだ道は、フィーアに対するものとまるで変わらない。それに気づいたルシファーは自嘲する他なかった。

 ◇

 静まり返った駐車場に軽い起動音が響いた。雪こそ降ってはいないが、白く変わるフロントガラスが気温の低さを示していた。カツミの車が無機質な建物の間をぬって基地のゲートで一旦停止した。認識カードを入れてチェックが終わるまでの時間すらもどかしい。
 ゲートが開いた。3ミリアまでに着かなければと、カツミがアクセルを蹴飛ばす。深夜。人通りの絶えた道を、性能いっぱいの速度で車が爆走した。

 カツミは、みずからに言い聞かせた。
 ジェイ。俺はこれを運命だと諦めたわけじゃない。ただこれは逃れられない事実だ。すがりついても失うのなら、もう俺が変わるしかないんだ。
 踏みとどまれ。逃げ出すことも投げ出すことも、とても簡単だ。でも、それではなにも手に出来ない。今までの俺は時間を無駄に過ごしてきただけ。あがくことすら諦め、辛さに麻痺するほど心を閉ざしていた。

 ジェイはこれを通過点だと言った。そんな突き放した思いには、まだなれない。でも追い込まれて初めて分かったことがある。
 誰にもきっと逃げられない時が来るんだ。正面から向き合わなければならない時が。そして、それを見守る人は必ずどこかにいる。俺は孤独じゃないんだ。

 カツミは流れる涙を何度も拭った。想いとは裏腹にあふれ出すしずくが、とめどなく頬を伝う。
 ジェイに会うまでに枯らしてしまえばいい。誰かのことを想ってこんなに苦しくなれたことは、今までなかったんだから。こんな想いは、もう二度と知ることがないのだから。……そう、もう二度と。

 ◇

 別邸の呼び鈴を押したが返事がなかった。
 カツミはドアノブに手をかざす。カチャリと音がしてすぐに鍵が開いた。足音を落とし暗い廊下を進むと、仄かな灯りが寝室から漏れている。

「ジェイ?」
 呼んでみたが返事がない。ベッドは使われていなかった。カツミは、そのまま隣の居間に足を向ける。
「ジェイ!」
 居間の床にジェイがうずくまっていた。上げられた顔は苦痛に歪んでいる。
「注射器どこ?」
 ジェイがサイドボードを指差した。弾かれたように身を翻したカツミが、がさりと引き出しを開ける。

 カツミの手際は鮮やかだった。すぐに静脈を探し出すと一発で針を入れ、慌てることもなく注射を終えた。その様子をじっと見ていたジェイの表情が、驚きから複雑なものに変わる。
「昔、やってただろう?」
 ジェイがカツミをたしなめた。ばつの悪そうな顔をしてカツミが横を向く。ジェイは追求をせずに、ベッドに横になると低い声で確かめた。

「なにかあったのか?」
 答える前にカツミがジェイの髪を撫でた。まるでこれまで与えてもらったものを返すように。そして迷うことなく事実を告げた。

「今日の夕方、オッジに出ることになった。それを伝えにきた」
 ひどく気落ちした様子でジェイが深い溜め息をついた。カツミの知る限り、そんなジェイの姿を見るのは初めてだった。いずれ分かることとはいえ、伝えるべきではなかったかもしれない。脳裏に後悔がよぎる。

 この時、ジェイのなかで張りつめていたものがブツリと大きな音を立てて断ち切れていた。その命をやっとの思いで繋いでいたものが。それでも死力を振り絞って、ジェイが質問を続ける。

「なにがあったんだ? 向こうと接触でもしたのか?」
「偵察機ロスト3。北区の基地はもう出てる。俺は18ミリア」
 カツミの言葉は単なる事実だが、それが示す重みをジェイは嫌というほど知っていた。
 初陣。それは最初にして最大の関門。事実、そこで人生を終えてしまう新兵はとても多いのだ。

「そうか」
 二人の間に静寂が落ちた。うつむいてしまったカツミにジェイが腕を伸ばす。
「おいで。カツミ」
 優しい言葉に、無理につくろったカツミの笑みが崩れた。薄くなってしまった胸に取り縋ったとたん、捻じ伏せていた慟哭が堰を切ったようにあふれだす。もう声を抑えることなど出来ない。
 ジェイの指が、いつものようにカツミの髪を撫でた。愛おしむように。記憶に刻むように。

「会えて良かったよ。カツミに会えて良かった」
 その言葉は、すでに過去形の意味合いを含んでいた。
 この温もりはもう二度と得られないのだ。そう感じて、カツミは切なさに押し潰されそうになる。
 でもカツミは決めていた。自分がここを、ジェイの元を離れて……出て行くということを。
 そう。出て行くのだ。ジェイのこころと共に。