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ONE 第三十話 清濁を越えて

 部屋のブザーを鳴らしたカツミを、待ちくたびれた顔のシドが迎え入れた。心配してくれる人がいる。それだけで、カツミは安らぐ。ほっと胸を撫で下ろす。
 ジェイが特区を去った時、任務中であるカツミは離任に立ち会えなかった。ジェイの去り際の言葉。それを知りたい気持ちもあったが、なにより一人でいられなかった。

 父親に対して精一杯の虚勢を張ったカツミだが、これまでは必ず受けとめる人がいたのだ。だが、ジェイはもう特区にいない。父の部屋を出て緊張がとけたとたん、カツミの足は自然とシドの居室に向いていた。

 ドアを開けるなりカードを差し出したシドが、何も言わずにキッチンに向かった。
「これは?」
「ジェイの家までの地図だ」
 手短に答えたシドの視線は、ティーポットに向いていた。広がる紅茶葉から立ち上るのは、木立の間をそよぐ風。つんとした針葉樹の香が静かな部屋の空気を洗う。
 ガラスのポットとティーカップ。磨かれた銀のトレイ。美しく型抜きされた砂糖。スライスしたてのライム。シドには当たり前のことだが、入隊以来ずっと機械任せで淹れているカツミには程遠い優雅さである。

 とはいえ、手を動かしながらもシドは無言だった。待たされていた間、彼が疑心暗鬼にとらわれていたことは、カツミにはすぐに分かった。

「どこに行ってたんだ?」
「どこに行ってたと思う?」
 ソファーに座ったとたん、シドが聞きただした。それを予測していたカツミが、質問を同じ質問で返す。

「人を小姑みたいに思ってるだろ」
「うん。思ってる」
 二人の口から、くすりと笑いが漏れた。軽口を叩き合ったことで緊張した空気が一気にとける。
「ドクターなら、予測はついてんだろ?」
 爽やかな香を深く吸い込んでから、カツミが訊いた。
「先を越されてばかりだな。言いたくないけど」
「親父のとこだよ。言っとくけど、自分から行ったんだからな」

 シドには信じがたいことだった。カツミが酷い暴力を受けたのは、つい最近のことなのだ。虐待を与えてきた相手に、みずから会いに行くなんて。口をつぐんだシドに、表情を引き締めたカツミが真相を告げた。

「ジェイのこと、もっと知りたかったんだ。だから親父のとこに行った。親父のことが引っかかったままじゃ、ジェイの言葉を信じられないと思ったから」
 カツミの落ち着いた口調がシドを戸惑わせる。どれだけの恐怖と戦いながら会いに行ったのかと。
 幼かったカツミがどんどん過去になっていく。一足飛びに飛び去っていく。自分はまだ、現実を受け入れることができないというのに。

「ジェイは、カツミになんて言ったんだ?」
 地下駐車場でジェイに訊きたかったこと。答えてもらえなかったこと。言わない理由は分かっていたが。
 カツミは即答せずに、念を押した。
「知りたいの?」
「知りたいな」
「ほんとうに?」
「ずいぶん勿体ぶるんだな」
「ドクターに恨まれたくねぇもん」
 言い渋るカツミを見て、シドが小さく息をつく。だがシドは引き下がらなかった。
「恨んだりしないよ」

 知りたいと思うのは、みずから炎に手をかざすような愚かなことなのだろうか。
 シドから逸れたカツミの視線が宙を泳いだ。しかし神秘的な瞳がすぐにシドを捉える。

 残酷なほど真っすぐに。残酷なほど潔く。美しい瞳が見つめる者の、そしてカツミ自身の退路を塞ぐ。

「俺がいればいいって。他はいらないって。生きててほしいって。終わりじゃなくて通過点だって。俺がいなければジェイがいた意味がなくなるって。ジェイと同じくらい自分のことを好きになれって……そう言った」
 クリムゾンとトパーズの瞳に光が宿る。相手の返り血を、当然のように受け止めながら。シドはもう、いつものように寂しく苦笑するしかない。

「恨んだ?」
 カツミが残酷な追求をした。だが、問いただしたのはシドだ。傷ついたこころを見せるわけにはいかない。

「恨みはしないさ。それに分かってたことだ。ジェイの言いそうなことだよ」
「恨んだらいいのに。俺、それだけのことをしてるよ」
「私は知りたいだけだよ」
「嘘だ!」

 カツミは、頃合いを見計らって引くことが出来ない。
 自分の弱さに対峙できないシドと、幼さを制御できないカツミ。二人が耳障りな不協和音を奏で始めた。顔をしかめたシドが、急いで幕引きを図る。

「分かった! 分かったから、もう勘弁してくれ!」
 降参だと両手を上げたシドを見て、カツミがようやく攻勢を弱めた。
「それで、中将はなんて言ったんだ?」
 冷めた紅茶に口をつけると、シドがもうひとつの質問をする。しかしカツミは答えなかった。
「俺の納得できる答えをくれた。ドクターには言えないけど。ごめん」
「謝るなよ。カツミが吹っ切れたんなら、それでいい」
 心を開いて話す。ジェイのいない今、それはカツミに必要なことだった。そして、シドにとっても必要な時間だった。

 質問攻めにあったカツミが、今度は問い返した。
「ジェイはなんて?」
「心配するなとさ。週末には行くだろう? 私も往診に行く予定だ」
「もちろん。遠いのか?」
「南部だよ。2ミリアで着く。海沿いの別荘地だ」

 シドの脳裏に長く続く海岸線と深い山並みが浮かぶ。
 あの道を、まだ新米医師だった頃に通ったのだ。ジェイに残酷な宣告をするために。
「ドクターは行ったことがあるんだな」
「十年前にね。ジェイが療養してた頃に」
「あの後か」
「そう」
 会話が途切れた。やがて耳を澄ますそぶりをしたカツミが、ぽつりと呟いた。
「雪、積もるかな」
「そう……だな」
 夜間照明と基地を舐めるサーチライトが、降り続く雪を照らしていた。白い窓外は、いつもより明るい。

「一年前、親父のとこにジェイが来たって」
 静かに切り出されたカツミの言葉で、シドは過去に連れ去られた。一年前のあの日。死人のように表情のないカツミの顔。むごい虐待の痕。泥と血の匂い。

「ドクターがそんな顔する必要ないって」
 カツミの言葉に弾かれシドが我に返った。バツの悪さを隠すように、俯いたままカップをソーサーに戻す。

「もういいよ。あいつらは処分されたし。辺境に左遷じゃ、士官学校出た意味なくなったしね」
 シニカルに笑ったカツミが、他人事のように惨事を口にした。
「あんな人数に輪姦(まわ)されたのは、初めてだったけどね」
「笑いごとじゃないだろう? ジェイが見つけなければ、どうなってたか」
「だね。でももう忘れる。今日決めたんだ」

 この言葉はただの虚勢ではない。きっぱりと言い放ったカツミを見てシドは思った。カツミはロイから一年前のことを聞いたのだ。
 あの夜のジェイの怒り。初めて見た激昂。燃えるような、心火を燃やすような瞳。
 カツミは確信したに違いない。ジェイの想いの深さを。清濁を越えて信じられる相手であることを。

 自分にはない強さだとシドは思う。崩れてしまうのではと心配していても、カツミはやすやすと乗り越える。理解するよりも先に、肌で知るように。
 シドの思いをよそに、伸びをしたカツミが小さくあくびを漏らした。

「疲れたんだろ? 明日も早いぞ」
「追い出すの?」
「ジェイに御守りを頼まれてるからね」
「なんだよ、それ」
「言葉通りだけど?」
 シドの皮肉に思案顔をしたカツミは、ソファーにぱたんと横になって目を細めた。
「じゃあ、泊めさせてもらう。御守りついでに」
「おまえ……」
「今度こそ殺す?」
 シドをからかうカツミの笑みは、まるでジェイを映しとったかのよう。じっとカツミを見下ろしたシドは、呆れながらも最大限譲歩した。

「じゃあ許可するから。ただしカツミはベッド。私がここ。風邪なんか引かせたら、ジェイに恨まれる」
「えっ。添い寝してくんないの?」
「……いくつだ。おまえ」

 シドは呆れるのを通り越して脱力した。
 添い寝だって? そりゃあ、ジェイなら喜んで引き受けることだろうよ! しかし自分は、曲りなりにもお前の恋敵だ。わけが分からない! なのになんだ。その不思議そうな顔は!
「そういう問題じゃないよ」
 カツミの返答にシドは頭が痛くなった。
「ジェイは、いつもこんな我が儘を聞くのか? 偉大だな」
「だろ?」
 皮肉も通用しない。盛大に溜息をつくとシドがカップを片づけ始める。キッチンに向かう背中に、カツミから不満が投げられた。
「ドクター。話の途中だぞ」
「知るかっ!」

 うるさい相手を無視して浴室にこもる。そこを出た時には既に、ベッドは我が儘な子供に占拠されていた。
 眠れないと言っては医務室に来ていたカツミの寝息。ほっとしたシドが頬を緩める。
「枕なんか抱いて寝るな。当てつけか?」
 取り上げた枕を元の場所に戻し、やれやれと狭い場所に横たわる。
「まったく。殺したいところだね」
 気持ちは言葉と逆だった。ジェイが甘やかすわけを知った気がして、シドはカツミの柔らかな髪に指を触れる。
 あんな言葉を聞いたというのに、冷静でいられることが不思議だった。
「他はいらない……か」
 そう言いながらも、ジェイは自分にキスをするのだ。全てを見透かす顔をして。

 気持ちと行動が揃うことなど滅多にない。カツミのように真っ直ぐでいることのほうが難しいのだ。
 灰色の世界にカツミだけが透明なままでいる。どんなに闇を注がれても。
 ジェイが召され、そして自分たちは残される。カツミは、その闇すら越えるのだろうか。

 取り残されたような気持ちを抱えたまま、御守りを任されてしまった人物が、またひとつ溜息をこぼした。
 今年初めての雪が、しんしんと降り積もる夜に。