ふたつのうつわ 第20話 二年後の春にまた
二月。先生の元にレイヤー聴きの博士からメールが届いた。
定年退職をしたこと。そして、在職中は言えなかったことだと前置きしたうえで、博士の個人的な考えが綴られていた。
──飼っているペットが大きく見えていた事例は、子供の視点かもしれません。
小さな子供にとっては、見るもの全てが大きく見える。
飼い犬や飼い猫が大きく見える子供たちは、安心できるものを探していた。つまりは、それだけ不安が強かったのだと思えるのです。
レイヤーの発生場所は、大きな自然災害の起こった場所だった。
私には、あの現象は自然が人間に与えた癒しのように感じるのです。
自然は人のいのちを奪うことがある。しかし天も地も大きな恵みをもたらす。
レイヤーという現象は、傷ついたこころに当てがった薄いガーゼのようなもので、傷が治るまで厳しい現実から守っていたのではと。
ひと仕事終えた私の感傷かもしれませんが。
ランプシェードの灯りに、毎日癒されています。
また島に伺いますので、その時は宜しく。ナツキくんと、トーマくんにも宜しくお伝え下さい。
どんなことも多層から出来ていて、広く深い視野を持つことが、人生を豊かにするのだと、知ってくれれば幸いです。
「どんなことも多層から出来ている……」
ナツキがぽつりと呟くと、先生が深く頷いた。
「そうだね。視点が凝り固まってしまったら、次に進めない。改善策も浮かばなくなってしまう。立ち止まってしまった時は、視野を広げるといいね。色んな人の意見を聞いて、見極める目を育てるんだ」
冬休みの課題に取り組んでいた時、ナツキはそれを体感したのだ。
固定観念が失敗を招いていたことを。新たな気づきが成功に導いたことを。
分からないことだらけだった。しかし、自分の立ってる場所だけは見えていた。
何かをひとつ発見するたびに、向かう先の霧が晴れるように目標に近づけた。
淡いレイヤーが消えた後に手にしたのは、多層的な視点。
みずからの意思で動き、探求するこころ。
見えない何かに守られている。そんな気持ちがした。
分からないけれど、分かる必要などない大きなものに。
「博士が来たとき見せられるように、茶碗、仕上げておかないとな」
ナツキの決意に、先生が嬉しそうに目を細めた。
横を向くと、トーマもまた頷きを返す。
ひとりでは得られなかった視点は、トーマから貰ったもの。
寂しさを癒す仲間。同じことが好きな仲間だった。
ノーラは、入れ替わりに元の大きさに戻った。まるで、役目を終えたとでも言うように。
◇
梅の季節。陶芸教室の庭にも、紅梅が花びらを広げていた。
トーマが写真を撮っている。鮮やかな花の色を楽しめる季節が来たのだ。
それを後ろで見ていたナツキが、ポツリと言葉を寄越す。
「トーマのレイヤーが取れて良かったよ」
「えっ?」
不思議そうに見開かれた青い瞳。
それに笑みを返すと、ナツキが言葉をつなぐ。
「レイヤー持ちのレイヤーじゃないよ。トーマの丁寧語。あれは、他人から自分を守るレイヤーだったんだろ?」
「うん。人の目が怖い時があった。敵に見られて攻撃されたくないって」
「今は?」
「信頼出来る人を見つけるためには、自分の目を曇らせたら駄目って思った。でも、色んな考え方があるって。正解はひとつじゃないとも思ってる」
「だよな。ほんと。先生が言うように『絶対』なんてないよなあ」
「うん」
赤い梅の花。レイヤーが取れた日に下絵していた花。
花はなにも言わない。言葉もなく、あるがままでいるだけだ。
様々な人たちが、それぞれの価値観で色んなことを言うだろう。
しかし花は、そのいのちを全うするだけだ。
自分の芯を取り、土台を強くして、あの花のように凛としていればいいのだ。
風が吹き、雨が降っても、ただ空を仰いで。
◇
卒業式の後。ナツキは先生に大きな工具箱を渡された。
作陶の道具である。
コテやカンナは、たくさんの種類があった。弓やトンボ、針や切り糸。使い慣れた道具も揃えてある。
代用できる道具はあるが、専用の道具類はどうしても高価になる。餞別代わりだよと、先生がニヤリと笑みを向けた。
応援してくれる人がいる。見守られている。その気持ちが、真っ直ぐに伝わる。
ナツキは礼を言うと、深く頭を下げた。心底嬉しかった。
桜の蕾が膨らみ始めた頃。いよいよ、ナツキが島を出る日が来た。
見送りに来たトーマの肩をぽんと叩くと、先生が先に船室に入る。
港の桟橋で、トーマは寂しそうにしていた。
「ナツキ。これ、持っていって」
彼が差し出したのは、あの星のうつわだった。
それに、くしゃっと笑みを向けると、ナツキがリュックから箱を取り出す。
「クリスマスの時と同じだな。また先を越された」
そう言って手渡したのは、氷裂貫入のご飯茶碗。
美しい仕上がりだった。
花びらを散らしたような氷の層。外側は斜め半分に釉掛けをし、垂れた釉薬がビードロの溜まりを作っていた。
白い土に青みがかった釉薬。トーマをイメージして作られたものである。
「すごい綺麗。ありがとう。大事にする」
「こっちこそ、ありがと。メールするよ。写真、送って」
「うん」
「じゃあな。また」
「またね」
高速船のデッキからナツキが手を振ると、トーマが小さく振り返した。
春の柔らかな日差しのなか。青い瞳を潤ませ、ぎゅっと唇を噛んでいる。
出航のアナウンス。
大きくなるエンジンの音。波が飛沫をあげて船を押し出す。
「ナツキー! 元気でねー!」
精一杯の笑顔で、トーマが大きく手を振った。
潮風に、淡い色の髪を煽られながら。
手を振り返していたナツキは、島がずいぶん小さくなってから、自分の涙に気づく。ぐいっと服の袖で目尻をぬぐうと、大きく息を吐き出して島影を見つめた。
二年後の春に、また。
ひとまわり層を増やして、視野を広げて、帰ってくるから。
だから、また一緒に。
──後日。トーマからのメールには、こう綴られていた。
あの後。ノーラがナツキを探しまわって、フーフー言って怒ってたんだ。ツンデレなの? ノーラって。
ちっとも懐かなかったのに、なんだよとナツキは笑う。
ノーラこそが、あの工房の守り神なのかなと思いながら。
『ふたつのうつわ』 ──了── copyright・如月 ふあ