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ONE 第十二話 コインの裏

 部屋の灯りは既に落とされていた。ベッドに上がったカツミがバスローブを放り投げる。子供っぽく、乱暴に、照れ隠しのように。向き合う二人は子猫に見えた。こころも身体も幼い、二匹の子猫に。
 フィーアの手が、すっとカツミの腕に伸びた。残された痕を見つけたのだ。確かめるように指先で触れる無言のままの儀式。カツミにはフィーアが何を思っているのか分からない。ただじっと黙って受け入れていた。

「似てるね。双子みたい」
 口づけの痕に無粋な言葉はなく、代わりに初めて見るような視線が向いた。何も纏わず見つめ合う二人は、双子のようだがまるで違う。似ているようで対極にいた。
 フィーアの視線の先にある、美しいオッドアイ。
 深い赤──クリムゾンは血を連想させ、淡い琥珀──トパーズは黄昏を思い起こさせた。生と死が一対となった瞳だと感じた。

 ──いのちのクリムゾン。死のトパーズ。
 神秘的な瞳は見る者すべての心を奪うだろう。美しさに魅了されるだけではない。生き方を問われる真実を映す鏡。
 だからこそ王女は言った。カツミはこの星の意識の底を洗う鏡だと。

 カツミがフィーアの手を取ると唇を寄せた。触れるように優しく。しかしすぐに抑えが利かなくなる。
 彼には焦らすようなことは出来ない。慣れているようで、それでもやはり幼かった。欲のままについばまれ首筋をくすぐる息に、フィーアが声を上げて笑う。
「好きだよ」
 カツミの背に腕をまわしフィーアが耳元で囁いた。
 彼はカツミの瞳を直視出来なかった。全てを暴かれそうで。恐れていることを突き付けられそうで。その深淵を覗くことなどとても出来ないのだ。

 身体が離れると、うつむいたままのフィーアが願いを告げた。自分の腕に触れながら、切ない願いを。
「カツミと同じ痕をつけて」
 ──刻印を。永遠に消えない証を。
 深紅の瞳が切なげに揺らいだ。だがすぐに顔を伏せると血の滲むほど強く吸い上げる。痛みが陶酔に変わる。切なさが欲望に変化する。
 ただ残されたのは刹那のしるし。明日になれば消えてしまうような儚い花びらだった。

 ◇

 二匹の子猫がじゃれ合う。快楽の坂を上り詰めると、フィーアはあっさりと解放されてしまった。与えられる不思議な浮遊感。未完成なものにある危うさに魅入られる。

 手にした者が離さないわけだと、フィーアはそっと苦笑いをこぼした。
 美しさと危うさ。生命力と儚さ。気まぐれに甘えていたかと思えば、ふっと気を逸らして不安にさせる。我が儘に。無邪気に。思いのままに。

 カツミを独り占めできた一日は、あまりに短かった。ただ、短くて良かったのだとフィーアは思う。示された先が思っていた通りと知った今では。
 自分はコインの裏側なのだ。その事実は決して変えられない。ここにいれば、カツミとの時間が増えれば、更なる苦痛が待っているだけだ。

 踊るように指先が背筋を下る。その行き着く先も、自分のゆくえも、フィーアにはもう分かっていた。
 切なかった。だが彼は幸せも感じていたのだ。一筋の光を見つけたように。やっと安らぎを手にできると。

 ◇

 ほんのわずかだが眠っていたらしい。フィーアが壁の時計を見ると、21ミリアをさしている。バスルームからは水の音。
 身体を起こしたフィーアは痛みに動きを止めたが、腕に残る花びらに気づいて唇を押し当てた。息を止め、込み上げてくるものをじっと堪える。
 浴室のドアが開くとカツミが戻って来た。濡れた髪を無造作に拭きながら問いかける。

「眠ってたね。大丈夫?」
「うん。平気」
 無邪気なキスを受け止めながら、フィーアが目を細めた。初めての経験ではない。五年ものあいだ、とある人物とずっと交流があったのだから。

 直視できず受け止められない現実が目の前にあった。フィーアは自身に問う。ほんの一瞬でもカツミの心を独り占めできたのかと。まばたきほどの間でも。
「また来ていい?」
「好きだよ」
 カツミの問いには頷きだけを返し、フィーアは想いを言葉に乗せる。報われることのない想いを。決して報われることのない想いを。

 涙が溢れて来たのは、カツミが部屋を出た後だった。悲しかった。ただ悲しくて、悲しくて、他の感情を全て忘れてしまったように、悲嘆の海に放り込まれていた。
 ──また来ていい?
 もう会えないよ、カツミ。フィーアは心で呟く。
 もう会ってはいけないのだ。彼は自分とは違う。同じだけのものを与えられたのに、大元がまるで違う。
 願わくは、魂の一部でも自分のものにしたい。記憶を刻みたい。永遠に。そのためには?

 窓の外を偵察機が行き過ぎる。差し込むサーチライトの明かり。それがフィーアの顔を舐めるように照らしては消えた。
 なんだ、簡単なことだ。記憶を刻む方法なんて、単純すぎてめまいがするほどじゃないか。
 小さな笑い声が響く。顔を上げた彼の瞳は、驚くほどに澄んでいた。

 ◇

「してやられたって顔してるね」
 就業時間もとうに過ぎた頃。医務室を訪れたジェイに、シドが皮肉を向けた。
「また、すっぽかされたんだろ? 今度の配属が一緒だっていう話は聞いた?」
 ジェイの顔色がいつ変わるかとシドは思っていたが、彼は疲れたように向かいの椅子に座っただけだった。

「そうやって、奪われていくのを黙って見てるわけ?」
「奪えないよ」
 ふいにジェイが返した。確信のこもった言い切り方で。
「今のままでは奪えない。私が恐れるのは、フィーアがそれに気付いて次の手段に出ることだ」
「次? まさか。もうフィーアにカツミは殺せない」
「そう、殺せない。そして報われない。次はどうするか。そんな気持ちになったことがあるか?」

 シドから溜息が落ちた。ジェイはいつも先読みをするのだ。まわりがついて行けないほどの先を。今回もそれで空回りをしてしまった。あのまま放置していれば、カツミとフィーアは平行線だったろうに。
「考えすぎだよ。ジェイ」
「そうか」
 答えるなりジェイは口を閉ざしてしまった。重苦しい空気を嫌うように、立ち上がったシドが窓を開ける。
 こうして弱みを見せてくるジェイに、シドはいまだに戸惑いを覚えてしまう。

 『それでジェイを裏切らせて、どうしたいんだよ? 元のさやに納まろうってんのか?』
 あの時のカツミの言葉が蘇る。
 きっとそうなのだ。えぐられるような言葉を受け止め続けるのも、立場が危うくなるような事に手を貸してしまうのも、その、いつかのため。
 ……いつか? 身震いをして、シドがまた思考を止めた。視線の先のジェイは疲れたように瞼を閉じ、やつれてさえ見える。

 覚悟していたはずの現実を、シドは認めることが出来ない。彼は思っていた。自分こそ、時の神が奪いに来るのをただ座視しているだけだと。