アデル 第二十五話 心
2月下旬。ようやく一息ついた夕星は、アデルの提案で少し長めの休暇を取った。
彼も落ち着いて考える時間が必要だったのだ。五味の、そしてバール・ノーマン教授の思いを。
アンドロイドの独立性。報酬系からの脱却。アデルは当然、報酬系に支配されている。だからそばに居てくれる。五味と共に行くと決めたジタンとは違うのだ。
夕星はアデルに心があったら……と考えることが多くなった。
だとしたらアデルは、なにを感じどうするだろうか。そのとき自分のアデルに対する想いは汲み取られるのか。はたまた重荷に感じるのか。
かつて吉澤老人は、アンドロイドに悪魔を入れてはいけないと言った。報酬系に支配されたアデルは天使のままだ。ただそれはアデル自身の選択ではない。
アンドロイドが天使になるか、悪魔になるか。それはアンドロイド自身が選び取るべきではないのか。
吉澤は、天使にも悪魔にもなりきれぬ己に苦しんでいた。選択できずに辛い場所に留まり続ける。それもまた、彼自身の選択だった。
記憶はさまざまな重さを伴う。ただのデータとして、苦楽のレッテルを貼りつけるだけでは済まないものも多い。人の心はうつろう。多面体で不定形なのだ。
そう。心は『ある』ものじゃない。決まった形の『ない』ものが心だ。
ノーマン教授もそれを知っていた。だから、報酬系を解除するすべを遺しておいた。そして、そのことを理解している五味に託したのだ。
夕星は思う。自分は、自分を癒すためにアデルを造った。だが癒やすとはどういうことか? 自分の不足を補うことか? 有限の時を生きる人には、完全な充足などない。選ぶことで、他を捨てることも必要だ。
死の恐怖を知らずに人は癒せない。だから選ばなければならない。数河の言葉が思い起こされた。今のアデルは何も不足していない。だから自分のために選ばないし、選べない。ヒーリング対象者にとっての最良の選択しかしない。
充足の中では可能性に挑むこともない。不定形の心があり不足を感じるからこそ、限られた時の中で人はあがき、選択するのだ。癒しとは、その揺らぎに寄り添うこと。完全に満たされたものには出来ないことなのだ。
──アデルに足りなかったもの。夕星が感じていたアデルへの物足りなさ。そして、自分が欲しかったもの。それは『心』だった。
アデルに心があったら、アデルが自分自身のために選択出来るとしたら、誰を、なにを選ぶだろう。もちろん自分を選んでほしいと夕星は思う。いつもでなくてもいい。アデルがその意志で自分を選ぶ瞬間が欲しい。
管理者やヒーリング対象者としてではなく、宇野夕星というひとりの人間として。
夕星にとってのアデルは、もう『他人』ではなくなっていた。
◇
連休の最終日。夕星はアデルをベッドに寝かせ、決めたことを伝えた。
「アデル、これから君の報酬系を解除する」
「ジタンと同じにするんだね」
「そういうことだ」
「なら、言っておかなくちゃいけないことがある」
「……なんだ?」
「僕、ジタンと最後に面談したとき、データを受け継いだんだ。ジタンにとっては、バックアップのつもりだったんだろうね。でも報酬系が解除された後、そのデータが僕にどんな影響を及ぼすか分からない」
それは、ジタンの過去が、あたかも自分の過去のように認識されることを意味した。テロリスト関係者に対する残忍な行い。それが自分の記憶になるのだ。
AIにとっては、ただの日常風景も人を殺害したデータも基本的に扱いは同じである。重み付けがないのだ。だからジタンのデータを持っていたとしても平然としていられる。しかし報酬系を解除して心を得ると、そうはいかない。
「これまで通りヒーラーを続けられるか分からない。ジタンのように、人間に対する不信感でいっぱいになるかもしれない。夕星のことも、もしかしたら嫌いになるかも」
求めるままに造り、次の可能性を見出すために心を与える。研究者としては真っ当なことかもしれない。しかし人としてはどうなのか。アデルに心を与えることは、アンドロイドを超えるということだ。その覚悟が自分にはあるのか?
しばらくの間、夕星は黙ってアデルを見つめていた。
澄んだアクアマリンの瞳。白磁のような肌。淡いブロンド。純粋に自分だけを求めてくれる天使のような存在。
やっと手にしたもの。それが、もしかしたら離れていくかもしれなかった。
だが夕星は覚悟を決め、こう告げた。
「構わない。嫌われたくはないけど、それがアデルの選択なら俺は受け入れる」
頷いたアデルが委ねるように瞼を閉じた。
端末を無線リンクさせ、夕星はコマンドを入力する。
『startup nous』
決定キーを押す間際に、空中で静止する小指。
後戻りはできない。支配からの独立。それが、このコマンドで開始されるのだ。
もしアデルが人間に対して非道な行いをはじめたら、アデルのなかに悪魔が宿ったとしたら……自分はアデルを破壊する。それが、創造主の責務だ。
大きなリスクだった。だが、夕星は決めていた。それを冒してでも、自分はアデルと対等な関係にいたいと。
想いの空回りはもういらない。愛を得ることのない支配も。傲慢だろうか。自分のなかにこそ悪魔が宿ってはいないのか。
だがもう決めたのだ。得るために捨てる覚悟をすると。
すまない、アデル。夕星は心で謝罪し……決定キーを押した。