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ONE 第二十七話 初雪の降る日に

 広大な基地を覆う結晶。唸りを上げて滑走路を行き交う除雪車。白くペンキが刷かれたドライドッグの屋根。鉛色に霞む居住区。

 その日の特区には初雪が降っていた。母星にはない冬の到来は、きたる春への助走に過ぎない。短い冬の間に天から降り注ぐ白い花。冷たく、しかし厳格に。その淡い花びらは、あらゆる矛盾と諦念を覆い隠す。
 死の冬を越えてこそ春の温もりを知る。
 この星を支配する長い冬の時代。そこに春風を呼ぶ者を、時の神は試すのだ。静かに。ただ静かに。厳かに。
 ──百年の時を越える願いをこめて。

 寒風の吹き込む地下駐車場に二人はいた。一人はいつも通りに淡々と。そしてもう一人は、相手を推し量るように言いたい言葉を飲み込んでいる。

「これで全部なのか? ジェイ」
 ジェイが車のトランクに荷物を収め終えると、シドがもう一度確認する。
「ああ。だいぶ処分したからな」

 ジェイの部屋は元から物が少なかった。長年暮らしていた部屋だというのに、備え付けの家具がそのまま置かれ、殺風景だったと言ってもいい。
 通常より二年も早く入隊した彼であったが、二十九歳という若さで退官を余儀なくされるとは思いもしなかっただろう。
 先が長くないと知っているからこその、世捨て人のような生活なのか。それとも、元から俗人とは違う感覚なのか。

 車にもたれかかったジェイが煙草に火をつけた。小さな炎を見て、シドがずっと押しとどめていた言葉を口にした。
「カツミと話はしたのか?」
 しかし、シドの問いはそのまま寒気のなかに溶けて消えた。ジェイはコートのポケットから一枚のデータカードを取り出すと、シドに手渡す。
「週末には来るんだろう? 家までの地図だ。渡しといてくれないかな。お前は知ってるよな」
「ああ。往診に行かせてもらうよ」
 不満を無理やり押し殺すシドを視界の端に捉え、お節介なのか未練なのか分からんなとジェイが小さく笑みをこぼす。

「何かあったら電話して。すぐに行くから」
 医師としての定型文に、ジェイが笑えない冗談を返した。
「あまり早く何かあってもらったら困るけどな」
 他人事のように乾いた言葉を放り投げたジェイが、凍った駐車場の空気に煙を吐き出した。

 その日が来るのは、もう遠い未来ではない。彼は入院ではなく別邸での療養を選択している。病状から見て、とても一般的とは言えない選択が意味すること。
 ジェイは自分の延命より、彼にとって最も大切なことのために時間を使うと決めているのだ。

「ジェイ」
 なにか言いかけたシドに首を振ってみせたジェイが、煙草の火をもみ消す。
「心配いらないよ。お前がいつも言うように、自己管理は出来てるつもりだからね」
「そう願いたいところだね」
 紫煙の先を見つめ、言ってることとやってることがまるで噛み合ってないと、シドが溜息をもらす。

 シドの苦笑は諦めの象徴だ。ジェイはそれを横目で確かめると、車のドアを開けて運転席に滑り込んだ。軽い動力音のあと、黒塗りのセダンがわずかに車体を浮かせる。

 もう特区に思いは残さない。ジェイは残された時間に自分がしなければならないことだけを考えていた。
 その彼の思いを、こころのなかに閉じ込めてしまえないシドが、所在なく突っ立っている。

 すうっと車の窓が開いた。軽くシドを手招きしたジェイは、いつものように何かを見透かす目をしている。
 意図が読めないまま顔を近付けたシドの首に、ジェイの腕がまわされた。
「ジェ……」
 言葉は唇に遮られ、残されたのは煙草の味と微かな切なさ。シドに目を細めてみせたジェイが、すぐにフォワード(前進)のボタンをタップする。
「またな」
 そっけない一言を残し、セダンはゲートを抜けて行った。

 ◇

 執務室の窓から表を眺めていた最高責任者は、記憶に残る自家用車がゲートに向かうのを認めると、それが雪で見えなくなるまで見送っていた。
 ロイは黙したまま。ジェイへの言葉はない。

 ──欲しいものは奪う。
 それはロイが自身に課した、譲れない決意だった。
 張り詰めた心はいつも軋んでいた。時が経つほど現実を思い知らされていたからだ。

 後悔はない。結局自分の勝ちだ。ジェイはそう言い残した。許しと解放の言葉だった。
 しかしロイは、それを受け入れることが出来ない。受け入れてしまえば、自分がもう一歩も動けなくなることを知っていたからだ。だが……追ってくる者は心のなかにいた。決して逃れることは出来ない。

 ──さあ、認めなさい。これが最後の審判です。
 抗い続けた先に安息の地はあるのだろうか。諦念を促すように、視界が白一色に染まっていった。

 ◇

 ブザーを押してもカツミは現れない。思案顔でドアの前に立ち尽くしていたシドだったが、諦めて踵を返す。

 一年前のあの日も、こんな雪の日だった。カツミが入隊してきて間もない頃。
「まさかこんな日に墓参りでもないだろうし」
 エレベーターホールに戻りながら思考を巡らせていたシドだったが、やがて一つの可能性に辿り着いた。
「まさか」
 疑念が確信に変わるのを避けるように、呟きをこぼす。まさかロイのところに?
 しかし、ジェイはもう去った。あの人がカツミに干渉する理由はないはずだ。まして、カツミが従うとは思えない。ジェイに会える週末だけを待っていれば、満たされるのだから。

 シドは自分が納得できる状況を望んでいた。ジェイにはもう時間が残されていない。ただの一度でもジェイの辛そうな顔を見ずに済むように。せめてその心だけは幸福で満たされるように。
 シドは、そのための最良の選択を知っていた。そのためなら、どんなに辛くても平気なふりができると信じていた。彼は思う。自分とカツミの想いは同じはずだと。

 エレベーターを降りたシドが、自室のある階に歩を踏み出した。何気なく視線を向けた窓外に──雪。
 こんな景色を見ると、彼はどうしても一年前のことを思い出す。

 あの日。処置室のベッドで頑なに口をつぐんでいたカツミ。そして、初めて見たジェイの怒り。激情。
 いつも冷ややかな彼が、あの時だけはまるで別人だった。何も言わずに踵を返すと、荒々しく医務室を出た。
 取り残された後に感じた驚愕と恐れ。あの時の自分は、自分の不安から目を背けるために医師の義務を果たしていた。気付くべきだったのだ。ジェイのなかに、すでに別の感情があったことを。

 カツミ。お前はもう掴んだはず。この自分がいくら望んでも得られなかったものを、その手に掴んだはずだ。
 あの日のように心を閉ざして、みずからを絶望に追いやることはない。そんな事はもう望んでいないはずだ。

 そこまで考えると、シドは情けない自分に呆れてしまった。ああ、自分を棚に上げてカツミに偉そうなことを言っている、と。
 しょせんは他人の恋人に過ぎないカツミを、なぜこんなに束縛したがるのだろう。自分の代わりに、永遠にジェイのことだけを想っていて欲しいなど。
 代わり? 違う。自分はカツミにこの身を重ねているのだ。きっと自分はカツミを問い詰めるだろう。自分が納得するようにカツミの心と行動を縛りつけるだろう。

 もうよせ。心で呟いたシドだったが、その直後にもうかぶりを振っていた。