ショートショート「指先で孕む。」

 指先が孕んだ。それは左の人差し指の先だった。
 その膨らみに気づいたのは、部屋で一人コーヒーを飲んでいる時のことで、それはまだ少し腫れた程度の膨らみではあったが、私にはそれがこれからさらに大きくなっていくこと、そしてこれが紛れも無く孕んだという状態であることが分かった。それは感じたとか、推測したというよりは、ごく自然な一瞬の流れとして、腑に落ちたという表現が最も正しいのではないかと思う。
 勿論、いわゆる常識的に考えれば指先が孕むなんて状況は起こりえない。指先には生殖するための器官など一つだって含まれていないのだから。けど私のその膨らみ始めた指先には、明らかに何らかの生命が宿っているのだった。それは何の理由も無く、その感覚として私の中に湧き出た。
 とはいえこれは不可思議な状況であることは変わらないわけで、その要因や原因を探るために、私の中で静かに堆積していただけの記憶はすぐに撹拌を見せ始め、それら一粒一粒は私の面前に降り立ってくるのだった。
 まず最も考えられるのは本来私の腹に宿るはずだった生命が、なんらかの手違いで指先にまわってしまったということであるがどれだけ思い返せども、ここ半年ほど性交渉の類をした記憶は無かった。そしてその事実を咀嚼していると、ある一つの記憶がゆっくりと浮かびあがった。それは通勤の電車内のことだった。ほとんど満員に近いその車内、私はいつものように右手を上げてつり革を掴み、十数分間の密集を無気力に耐え忍んでいた。そんな中一瞬だけ、だらりと下げた左手の、その人差し指の先に何かが触れたのだった。それは今思えば明確な体温を持った、誰かの指先だった。そしてそれが私の指先を孕ませたのだった。何の証拠も科学的な理論も無い、だけど何故かその記憶に触れた途端、私は確信してしまったのだった。それだけがあった。
 病院には行かないし、誰にも相談はしない。こんな話を誰が信じてくれるというのだろう?私はその指先の、その中で育ち続ける生命をじっと眺めながら、いつか来る最後の日まで待ち続けることにしたのだった。
 それ以外は取り立てて生活が変化するということも無かった。特別に栄養のあるものを口にしようとしたり、偏りを見せる食生活を是正しようとしたりすることも無い。いつも通りに食べ、働き、眠る。時折孕んだ指先を眺め、少しずつ膨らんでいくそれを感じる。ただそれだけだった。
 指先は腹の部分が膨らんでいくのだった。爪の部分を上にしてその指を横から眺めれば、その膨らみはでっぷりと垂れ下がるような形で膨らんでいた。指先が丁度倍ほどの大きさまでに膨らむと、時折胎動を感じるのだった。それは脈拍とも違う、明らかに小さな生き物がその中で動いている感覚があった。もう片方の手の指でそれをそっと撫でると、生物特有の熱が、膨らんだその皮を貫いて伝わるのだった。
 私はなぜかそれを気味が悪いとも思わなかった。指先の中に命があって、それが私の一部を奪い成長していく。それは私がこれまで社会というものに対して抱いていた違和感の、その答えであるような気がしていた。そして何よりこんな状況、事実を受け入れてしまった私は、何ら葛藤に苛まれるといったこともなく、それを見守り続けた。
 ただ何も無い右手と並べてみれば、その左手の変化は明らかに浮いても見え、私はそれを誰かに見られることを避ける必要があった。だから私はオフィスに赴く際も、常に左手をポケットに入れていることとなった。パソコンを操作する際は第二関節を折り曲げ、手元を覗かれても孕んだ指先が目に入らないようにしているのだった。同僚に誘われても、基本的に断ることにもなった。特に生活に気を付けていないとはいえ、身重の身で酒を飲むことははばかられた。もし仮に酔っ払いでもしたら、誰かにこの指先を露呈してしまうかもしれない。私の孕んだ指先は、私の大切な宝であると共に、恥ずべき陰部のようにもなっている気がした。
 横から見た指先の厚さが三倍ほどにまで膨らむと、いよいよ出産の兆しを感じ始めた。内側から蹴ってでもいるのか、ぴんと張った指の皮を内側から破ろうとする強烈な力を時折感じるようになった。私は勝手にこの中に育つ生物が、小さな人間だと決めつけていたが果たして本当にそうなのだろうか?それにこの中の生物は一体どうやって外に出てくるのだろう?このまま膨れ上がっていく生物に耐え切れなくなった指先の皮膚が破れるのか、それとも内側からこの生物が食い破ってしまうのか。どちらにせよ血を伴うことは避けられそうにない。
 膨らんだ指先をつつくと、皮膚は張ってはいるものの、その中の生物とそれ以外を満たす液とによって、ぶよぶよと柔らかな弾力があるのだった。私は指と机とで、その膨らみを丁度挟むようにして何度かその弾力を味わい、もしこのまま力を込めて思い切り机の硬い表面にこの膨らみを押し付けてしまえば、この中の生物は抵抗も出来ずに死んでしまうのだなと思った。私に見放されれば、私の気が変わりでもすれば、この生物は全てを失うのだと。この生物は私に完全に依存していることで生きていられる存在なのだと。そしてそれをいま私は丸ごとこの両の目で眺めていることが出来ているのだと、そんなことも思った。私は立ち上がるとベッドに座り、自作した器具で左手を固定し、寝ている間に万が一にでもそれを潰してしまわないようにするとそのまま眠った。そんな日々を過ごした。
 気がつけば私は仕事にも行かなくなっていた。孕んだ指先はより一層に膨らみ、一日に何度か、強い胎動を感じるようになった。そしてその胎動と胎動との間隔は少しずつ短くなり、それに従ってその回数も増していく。もはやいつ生まれるかも分からないその指先を感じては、仕事に行っている場合などではなかった。スマートフォンは鳴る、毎朝の定時に何度か、また昼過ぎや夕方など不定期に何度か、私はその全てを無視した。充電が尽きるとそれはもう鳴らなくなった。
 ただそこから中々指先の中の生物は出てこなかった。だが一方でその胎動は、全く異なった変化を私に見せるのだった。あくまで指先だけの範囲で留まっていたはずの膨らみは、激しい胎動に従って揺れ動くように、また少しずつ膨らみだし、そしてそれは指の関節を越え、次第に指全体へと広がっていくのだった。痛みはどこにも無かった。だがふと見れば私の人差し指はテニスボール大にまで膨らみ、その重みによって手首は枝垂れ、私の手は肉の実をならしているように見えた。
 だがまだ胎動は止まらない。肥大した膨らみはその全体を揺らすように蠢き、それは心臓のようでもあった。孕んだ指はまだ膨らみ、今度はゆっくりと手全体を膨らませ始めた。始めから私の脳も侵食されていたのかもしれない、恐怖は湧いてこず、私はただ無抵抗にそれがどこに向かっているのかを眺めた。肥大はあっという間に手を埋める。手首の先には林檎のようになった丸い膨らみだけが垂らされている。その表面にはへばりついたように小さな爪が浮いて見え、それがなんとか手の痕跡を残しているようだった。
 孕みは止まる様子など見せない。それは胎動し続け、膨らみ続け、次は手首を越え腕へと侵食していく。膨らみは少しずつ腕を食い散らかし私の胸を目がけて進み続ける。ふと目の端に、鏡が見えた。そこに写った私の姿は、既に異形と呼んでなんら差支えが無い姿だった。左肩から先には、拍動する巨大な肉の塊がぶら下がっている。それはもう私の上半身位の大きさとなっていた。
 腕の中には何かが居た。楽しそうに蠢く何かが。私は、私を表すものがあるとすればこの脳なのだと思った。指先だけでくすぶっていたこの生物が、少しずつ身体を増しながら、私の脳に近づいてくるにつれ、その存在感も明確な形を成して、着実に私を襲い始めている。膨らみは肩を越え、胸を膨らませ、ついには上半身全体を膨らませ始める。いま姿見を見れば、きっと私は巨大な風船のように見えていくに違いない。もう姿見の枠には到底収まり切れない大きさだろうが。
 身体の感覚など、とうに無かった。ようやく僅かばかりの恐怖が湧き出してきたばかりだ。だがこれ以上増すことも無く終わってくれればいいと願った。
 膨らみきった、激しい胎動を続ける膨らみに、沈み込むように私のこの頭が飲み込まれていく。この膨らみは下部から、遂には視界すらを侵食する。水に浸かり沈んでいくように、膨らんだ肉の海に飲み込まれていくのだ。そして私はこの孕みに、完全に同化する。暗闇が完全に視界を覆ったかと思うと、私は破裂した。激しく、ただそれだけを感じた。一瞬だけ。
 私は破裂して死んだのだから、果たして何が生まれたのか、それは知らない。

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