ショートショート「銭湯発射」

 本日三時発射。近所に出来た銭湯の看板にはそう書いてあった。
 営業時間は二時から四時、そして三時に発射。こうして看板の前に立っている今は午後の二時半だが、目の前の銭湯の入り口は硬く閉ざされているから、おそらくこの営業時間の二時や三時というのは深夜のことだろう。
さらにおかしいのはその営業時間だけではなく、一万円という高額な入湯料もだった。銭湯であれば入湯料は千円弱ほど、どれだけ高くともせいぜい二千円が関の山だろう。だがその看板には色濃くはっきりと一万円と書かれている。私はしばらくその看板の前で首をひねった。
 
 夜になり私はまたその銭湯の前まで訪れた。外観は何の変哲もない、どこにでもありそうな銭湯そのものである。そして時刻はまだ八時を少しまわった頃で、銭湯には明かりの類もついていなかった。やはり深夜の二時にならなければこの銭湯は開かないのか。
 そして私はそのまま銭湯の様子を眺めながら、近くの電信柱に背をもたれかけ、時間が過ぎるのを待っているのだった。手の中には小さく折り畳んだ一万円札があった。
 寒空の下で凍えそうになりながら時間を待ち、ようやく二時になろうかという頃、辺りからわらわらと人が集まってくるのだった。いかにも銭湯を愛していそうな老人や中年の御仁たち、それ以外にも数人の女性や若い男、仲睦まじいカップルなどの姿もあった。そして彼らの顔にはみな一様に、とめどない期待や興奮が満ち溢れているのだった。
 
「すみません、この銭湯は一体どういう?」
 私は近くにいた優しそうな顔をした老人に話しかけた。するとその老人は私の顔を眺めながらにたりとすると、
「発射するんだよ」
 と、そう呟いた。
 私がそれ以上の説明を求めようとした瞬間、ガチャリと小さな音が響き、銭湯の入り口に明かりが灯った。腕時計を見れば丁度二時、銭湯の営業が始まったようである。そして周囲の人々はわれ先にと駆けていく。
 中に入ってもそこは何の変哲もないただの銭湯にしか見えなかった。受付では人々が次々に一万円を受付員の男に手渡していく。受付員のその男は頭の上半分が僅かにでっぷりと膨らんだような禿げ頭で、それはどことなくタコのように思えた。
 私もその男に一万円を差し出し、中へと入っていく。進めども進めどもやはり普通の銭湯としか思えない。私は念のために建物内の各部を丹念に眺めてみた。だがやはりどの箇所も法外な料金を取る程の特殊性を有しているとは思えなかった。そうなればやはり大浴場や湯船にこの秘密があるに違いないと、私はひとまず脱衣所に向かった。
脱衣所も何ら違和感は無い。私は服を脱ぎ、湯に浸かるため大浴場の扉をくぐる。そしてそこに広がっている大浴場も一般的な銭湯と大して変わらぬ景色だった。ただその中で一点だけ、違和感を覚える箇所があった。それは奥にある大きな湯船の壁だった。多くの銭湯ではきっとここに大きな富士が描かれ、それを眺めながらゆっくりと熱いお湯に浸かるものだろう。そして確かにその壁には何かを描くことの出来る大きく四角い枠線が引かれていたが、その中はただ一面の黒で塗りつぶされているだけだった。だが湯船に浸かった何人かの男達は、のんびりとその黒く巨大な四角を眺めているようだった。
 私は急いで身体を洗い、湯船へと向かった。念のため恐る恐るその湯に足の先を浸けてみたがこれも特殊な湯であるというわけではない。至って普通の、気持ちの良いお湯だった。肩まで浸かりゆっくりと息を吐くと、溜めこんだ疲れが湯に溶けて外へと出ていってくれる感覚を覚える。この快感は確かに何にも代えられぬ気持ちよさである。だがやはり一万円という価格設定はあまりにも高い。
 そして湯に浸かりながら、先ほどの黒く塗りつぶされた巨大な四角を見上げた。こうしてある程度まで近寄っても何ら変わらない、それはただの黒でしかなかった。これは一体どういうことだろうか、外観から内部まで、くまなく見渡してもここはただの銭湯だった。湯だって何ら澱みの無い透明なものであり、特殊な効用があるとも思えない。一つだけ通常と異なったところがあるとすればこの黒であるが、黒はただの黒であり、それに一万円を払う馬鹿がどこにいるというのだろう。だがやはり周囲の男達は、みな一様にその黒い四角を眺めていた。そしてその赤くなった顔は湯の熱だけでは無く、何かを待ちきれぬような興奮を変わらずそこに浮かべていた。
 私はもう一度その広い黒の四角を注視してみた。すると気づいたのは、その黒は表面に艶やかな光沢を浮かべていることだった。そしてそのまま見続けていると、その光沢の奥には何かが広がっている。それは僅かな木々や家などの建物、街灯や道路などの景色だった。そこで私は気づいた。黒く見えたそれは絵の具やペンキなどでは無く、この銭湯の外にある夜の景色なのだった。この大浴場の壁には大きく巨大なガラス窓が取り付けられ、そこから外の景色がうっすらと見えるのだった。
「くだらない。実にくだらない」
 私の中で沸々と怒りが込み上げ始めた。この窓から見えている景色など、どこにでもあるようなただの町並みに過ぎない。そこらへんを散歩でもすれば、こんな景色はいくらでも眺め見ることが出来る。むしろ眺め見る必要が無いほどに無価値なものだ。それなのに、これっぽちのものに一万円など、言語道断ではないか。
 私は今すぐに帰ろうと湯から勢いよく立ち上がった。そしてさっさと出ていこうと身を翻した時、私の腕は強く掴まれた。それはちょうど隣で湯に浸かっていた老人だった。
「まだこれからだろうが。そろそろ時間だ、発射だよ」
 壁に取り付けられた時計を見るとあと数秒で三時になるところだった。そして三時になった途端、私達の身体は細やかな振動に包まれた。
 その振動はそのまま強まり、そしてすぐに収まった。湯の中では男達の歓声が巻き起こる。どういうことかと思いながら私は彼らの視界の先にある巨大なガラス窓に再び目をやる。するとそこに映る景色は、するすると上から下へと滑り落ちていく。そしてそれは景色が動いているのではなく、むしろ逆なのだった。この銭湯全体が、空に向かって勢いよく飛び上がっている。目前に映る景色は次第に空の面積を増やし、私達の居た町の景色を小さく小さくしていく。銭湯は発射された。おそらくはそうだった。

 それからガラス窓には煌びやかな街の景色が映り続けた。街を彩る光の粒達が、敷き詰められた星のようにその輝きを街一面に魅せている。発射という言葉からは、この銭湯がこのままどこまでも上に向かって突き進んでいくようなイメージを抱いたが、ある程度までの高さまで達すると銭湯はそれ以上の上昇を止め、今度はその光輝く街並みを見下ろしながら前方へと飛び進んでいくのだった。
 そんな景色を眺めながら、周囲の人々はしばらくすると再びでっぷりと湯に浸かりはじめた。
「俺はこれで三度目だけどよ、やっぱり発射の瞬間てのはえれぇ興奮しちまうもんだな。けどあとは一時間ちっと待つだけだからよ、まあ焦らずのんびりしとけばいいのよ」
 景色はその窓の中に流れ続けた。銭湯は少しずつ街を抜け、芳醇な緑に包まれた森の上を走り、幾筋もの川も越え、再び現れた街の上を飛んだ。私はのぼせるのも忘れ、そんな景色をただ眺めながら、いつまでも湯に浸かっているのだった。
 壁の時計が四時を回り少し経った時、その景色の中に現れたのは雄大にそびえ立つ山の姿だった。目の前にある大きなガラス窓ではとても収まりきらないほどに巨大で、揺るぎないその山は、白み始める空から漏れる僅かな光を頼りにその輪郭をゆっくりと浮かび上がらせている。どこまでも広い山裾を伸ばし、頂上に多量の雪を降り積もらせるそれは、紛れも無く富士の山だった。
 そして富士の頂上が僅かに光輝き出したかと思うと、そこからゆっくりと朝陽が顔を出し始め、その眩い光を一面に広げていくのだった。その光は富士の雪を輝かせ、その山肌を、そこに茂る木々を、葉先の朝露を、さらにはガラスを突き抜け私達の浸かるこの湯の表面の波を、煌びやかに輝かせた。
 
 それから私は毎晩のように、この銭湯に通い詰めたのだった。一万円という価格設定も、今となっては妥当、いやむしろ安すぎる気がした。タコのような受付員に金を渡し、湯に浸かり発射を待つ。この湯に訪れている人々も私と同じように毎晩来ているようで、すぐに顔なじみになり、共に富士の山を眺めながら浸かる湯を心ゆくまで味わった。
 
 その日もいつものように金を払い、湯に浸かっていた。そして時間になり、銭湯が発射する。だがその日はいつまで経っても上へ上へと飛び上がるばかりで、一向に富士の方角へ進み始める様子は無い。湯船を埋め尽くすように浸かっていた私達が、何事かとさわぎ始めた頃、その声をぴしゃりと切り裂くように大浴場の扉が開き、受付員の男が顔を出した。
 そしてその男がにやりと不敵な笑みを浮かべたかと思うと、男の頭はむくむくと膨らみ始めた。皮膚の色は赤黒く変色し、腕は裂けいくつかの細長い腕がゆらゆらと宙を揺蕩う。それはとても人間の姿とは思えない様だった。
「あなたがたのおかげで随分と金も溜まり、それを使って地球の物資も大量に集まりました。そしてあなたがた地球人のサンプルも、こうして苦労なく集めることが出来ました。最後になりますが我々の星までの旅路、どうかごゆっくりとお楽しみになればと思います」
 そう言うと男、いや先ほどまで男だった生物は立ち去った。私達の背にあるガラス窓の向こうには、真っ暗な宇宙がどこまでも広がっていた。
 既にこの銭湯は、発射されているのだった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?