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ブランクーシ 本質を象る

6月末の下書きが残っていたので今更ながら。

アーティゾン美術館で行われていたルーマニア出身の彫刻家コンスタンティン・ブランクーシの展覧会。

鳥のブロンズ像が目当て。
宣伝で見ていたころから実物を観たいと思っていた。

鳥を抽象して抽象して抽象して、そうして残ったのが雄鶏であり空間の鳥である。そう思うと何だか興奮する。
たぶん自分のフェチズムに繋がっているんだと思わされた。

思えばカルダーの猫の絵もそうで、少ない線で猫でしかないと思わされる形象になる。そこがすごく好きだった(んだと思う)。

ブランクーシの作品もそうで、言われなければ鳥だとは多分分からない。だけど言われればそうとしか見えない。思ってしまうとあれは飛翔のための造形でしかないように見える。

あれを見てそう感じるその時がゾクゾクする。ある意味で自分の好きな、興奮するところが何なのか体感した展覧会だったかもしれない。

「アート」というものに興味を持ち始めてゆるゆると1年くらい経った。昔、大学生の頃から美術館には行ってはいたけども、ちゃんと意識始めたのは最近。

その中で印象派の絵をキレイだとは思いながらそれ以上を感じ取れない。マチエール、描いてない人間からしたらそんなの分からない。そんな感覚だった。

大学生のころ好きだったのは東京国立近代美術館にある岸田劉生の『道路と土手と塀(切通之写生)』(あとゴーギャン)
厚塗りの質感にその絵で描かれた場所の温度感というか空気感が体感(幻覚?)されて好きだった。バイト前にこの絵を見る前に寄っていた。

その時の感覚はありながら今アートを鑑賞しようと思うと「頭」が先行しなければいけないと思うようになった。この作品の時代はどうでどういう美術史的な流れを汲んでいて、、、解説を読んだりしてナイ知識を総動員して理解する過程が必要なんじゃないかと。

そんな中見たブランクーシ展は良かった。自分の内面からくる好きだという気持ちの輪郭が少しはっきりした気がする。どっちも好きなんだけどきっとそこにはなにか、、、、はまだ言語化できない。

面長




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