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絵手紙 親子でお散歩

カルガモの親子が散歩する姿はいつ見てもほのぼのとします。親子と言えば私は両親とはうまく付き合ったし、子供たちとも割りとうまく付き合っていると思っています。父親は子供の頃は煙たい存在でしたが、命令されたり束縛されたりすることもなかったので特に不満はなかったと思います。いや、どちらかと言うと私が「いい子」にしていたのかも知れません。母親は今では優しくしてくれた記憶しか残っていないです。ただ私が高校時代、雪山で遭難しそうになった時だけはもうやめて欲しいと懇願されたことを覚えています。

子供との親子関係で言えば海外生活が長かったこともあり、割と子供の頃から話をしてきた親子だと思います。息子との思い出では高校時代に少し荒れた時期があって、ついつい「悪い友達と付き合っているからいけない」と言ってしまったことがありました。その時だけは息子が私に食って掛かり「何も知らないくせになんで友達が悪いと言えるのだ」と反撃をくらいました。息子の言うことも尤もなので、一念発起し、子供の友達とも麻雀をやったり焼肉をご馳走したりして、すっかり仲良くなりました。お陰で今でも息子が友達についてどうなっているか教えてくれたりします。

先立たれ食衰えし夜着の母(よぎ:三冬)

冬の朝お迎え来てと祈る母(ふゆのあさ:三冬)

緩慢な自死を選びし母の春(はる:三春)


父の定年後くらいから母の立場はだいぶ強くなりましたが、それでも基本は仕える妻であったと思います。父は肺癌や骨折で車椅子生活になりましたが、文句も言わずに面倒を見ていました。その連れ合いを11月に亡くした母は全ての生きがいを無くしたかのように急に食が細り、週末に訪ねてもテレビも見ずにすぐに寝てしまい、年が明けて半年くらいで逝ってしまいました。きっと父の面倒を見ることだけが生きがいになっていたのでしょう。

句にある夜着は私の家では掻巻と言ってましたね。ドテラの大きいやつみたいで肩が出ないので暖かかったようです。

来社して低頭せし父小さき秋(あき:三秋)

来社せし笑顔の父や鷹渡る(たかわたる:三秋)


私が入社した年の秋、大阪に出張でやって来た父は取引先でもある私の会社に来て皆さんに頭を下げていました。今まで偉大な父だと思っていたのに急に父が小さく見えた瞬間でした。でも父は満面の笑顔で私に会いに来てくれました。親父と仕事の話や人生について話せるようになったのもこの後だったと思います。定年後はすっかり趣味人となりましたが、この年代の人にしては珍しく戦争時代の写真を見せてくれたりしながら、今の時代を語ったものでした。

テレビ欄読みて戻せし冬の朝(ふゆ:三冬)

子供の頃、親父が朝刊を読み終わるまで子供は新聞に触れられませんでした。でもテレビ番組が気になる私は親父がいない時を見計らってテレビ欄を盗み見みし、そっと元の場所に戻していました。この句でこれが朝刊を詠んだものと分かる人は多分少ないでしょうね。

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