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親父

いつの世も塞翁が馬秋の雲

私の父は11才の時に父親を亡くしています。父は8人兄妹の上から2番目なので弟や妹6人はまだ10才以下だったことになります。父もショックだったとは思いますが、8人の小さな子供を残された祖母の気持ちはいかばかりだったのか想像も付きません。その後、再婚もせず全ての子供を立派に育てたのですから大したものです。

親父が残した自叙伝によると祖父は当時としては珍しく生命保険を掛けていて、祖母はその保険金を元手に薬屋を始めたそうです。でも商売は余り上手く行かずしばらくして店を閉めました。また保険金の一部を祖父の弟に貸してその回収にも苦労したそうです。祖父は出雲で生まれ育ち、その後京都・舞鶴で船舶ディーゼルの整備をしていたようです。その頃勤めていた会社の同僚の妹が祖母でした。舞鶴で結婚し父の兄もそこで生まれています。その後、友人が横浜に造船所を作ると祖父も横浜に移りそこで父が生まれます。しかしすぐにその会社の仲間と弟の三人で東京・深川に会社を起こしているのです。そうして見ると社長だった祖父が生命保険を掛けていたことも弟がその保険金の一部を借りたことも納得出来るのです。

深川に移ってしばらくして関東大震災が起こります。親父はまだ5才でしたがこの時のことを良く覚えていました。隅田川には多くの人が飛び込んだと言われていますが、親父が見た姿は少し違っていて朝鮮人が火を着けたと言う噂が広まった為、怒った群衆が朝鮮人を川に落としたと言うのです。もちろん大半は熱さに耐えかねて自分から飛び込んだのでしょうが、そんな中でも子供が見た小さな真実もあるようです。深川の家は焼け落ち、知り合いのだるま船で何日か家族で過ごしたそうです。その数日間の間に父の妹は船の中で生まれした。大震災がお産を早めたのかどうかは分かりませんが、船に産婆を呼び、そこで生まれたことは事実のようです。そして家をなくした祖父は横浜に住んでいた別の弟を頼って横浜に移り住みました。その後、深川の工場を再建した祖父は事業を続ける為、懸命に働きとうとう体を壊し、最後は肋膜炎で短い生涯を終えました。享年42才でした。

親父が父と過ごした11年間はまさに激動の11年間でした。父は中学へ行くのを諦め、高等小学校に進み、卒業と同時に鉄工所に給仕として勤めます。その会社のはからいもあって工業専門学校の夜学に通い学校を卒業すると正社員としてそれなりの給与を貰えるようになります。その後、戦争が始まると親父は中国に派遣されるのですが、自叙伝を改めて読んでみたら兵隊としてではなく軍属として機械の修理などを担当していたようです。北京で呑気に写真に映っている様子などを見て、戦時中でもこんな平和な風景があったのかと思いましたが、実はバリバリの軍人ではなかったのですね。戦争も終わりに近づき乙種合格の父も徴兵されます。同期の連中が支那に向かう途中で全員戦死しましたが偶々皇居を守る近衛砲火隊に配属となった親父は命拾いをしたそうです。

戦争も終わりに近づくと皇居も無事ではなく、御座所にも焼夷弾が落ちたそうです。親父たちは玉座の黒壇の机を運び出そうとしますが、重くて持ち上がらなかたので机の上にあった菊の紋章入りの黒塗りの文箱など重要なものを運び出したそうです。その後、御座所にダイナマイトを仕掛けて爆破しようとしたのですが宮殿はびくともしなかったそうです。その際、仲間二人が焼死したのですが、親父は炎の中に落ちて行く仲間を見ていることしか出来なかったと言うことでした。そして終戦の日を宮城で迎えた親父はただただ頭を下げるしかなかったのです。親父と一緒に招集された兵隊は全て死亡し、宮城でも仲間を失った親父はその後、祖父の二倍以上長生きして86才の生涯を終えました。

ちなみに祖父が作った会社は保険金を借りた「祖父の弟」の頑張りで戦後も生き残り、親父の兄がしっかりと受け継ぎ、現在に至っています。

いつの世も塞翁が馬流れ星

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