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鴨川のジョギング皆は夕涼み

今日は三条大橋から三条の商店街の方向に進むところを描きました。この大橋は東海道五十三次の起点であり終点、京都の東からの入口になります。現在、この橋の大修理が行われていますが、絵にある檜の欄干は修理の前の物でボロボロの状態です。橋そのものは私の生まれた昭和25年に完成した鋼製の橋ですが、欄干は京都らしい檜の木製になっています。昭和49年の修理で欄干は取替られましたが、その時はちょうどオイルショックによる狂乱物価で木材の値段も高騰した為、檜は日本製ではなく台湾製の物が使われました。でも今回の欄干の架け替えでは京都産の檜が使われています。ようやく世の中が落ち着いたと言うことでしょうか?いや日本経済は落ち着きどころか、停滞ですね。でも本物志向は着実に根付いて来ています。欄干は取替えられても、幕末に付いた刀傷がある真鍮の擬宝珠は今回もそのまま使われています。

絵の右にある昔からありそうな建物は「本家船はしや」と言う豆菓子屋さんです。有名なので京都観光の際に訪れた人も沢山いると思います。五色豆などの豆菓子以外にも金平糖、京あられなどを売っていてやや高いけど庶民的なお店ですね。実は寺町通りにも二条を上がったところに「船はしや総本店」という歴史がありそうなお店があります。「船はしやの歴史」を見てみると寺町通り夷川角で明治初期に豆菓子屋を始めた店主がその後、三条大橋西詰に分家を出したとありました。でも看板は分家ではなく「本家船はしや」とあります。
何故なのかと思い「本家船はしや」のHPを見るとこちらは明治どころか歴史は秀吉の時代の天正18年(1590年)に遡ります。そう言えば「総本店」のHPには初代辻喜之助が船橋の煎豆商清水三郎兵衛と昵懇で五色豆の製法を学んだとありました。船橋とは多分鴨川沿いでしょうから、この清水三郎兵衛の一族が安土桃山時代から煎豆・五色豆を作っていたのかも知れません。清水家に感謝の意味を込めて「本家」にしたのでしょうか?

と、ここで京都には「豆政」という五色豆の老舗があることを思い出しました。こちらのHPでは明治20年に角田政吉が五色豆を考案したと書いてありました。この豆政は「船はしや総本店」のすぐ近く、夷川通り柳馬場西入るにあるので当時はお互い五色豆を売るライバル店だったのでしょうね。

鴨川のジョギング皆は夕涼み

いい季節になると鴨川の土手には恋人たちが並んで座って会話を楽しんでいます。(いや会話は楽しいのか別れ話かは分かりませんが)とくに夏の夕方は土手にいると鴨川を渡ってくる風が気持ちいいです。でも英会話のジェフ先生は夏でも冬でも関係無く、決まった時間になると鴨川をひたすらジョギングしていました。

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