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【小説】貴方の淹れてくれた美味しい珈琲を

「こんにちはー」
「いらっしゃいませ」
 カウンターの向こうで、マスターがにっこりと私に笑いかける。
「うっ」
 その笑顔が眩しくて、つい目を細めていた。
「……今日のオススメ、お願いします」
「はい」
 マスターが手際よく準備し、珈琲を淹れはじめる。丁寧にオールバックにされた髪、スクエアの銀縁眼鏡。その向こうの目は少し目尻が下がり、いつも優しい笑みをたたえているように見える。
「お待たせしました」
「ありがとう、ございます」
 目の前に珈琲が置かれ、ふくよかな香りが鼻腔をくすぐる。カップを口に運びながら、マスターをちらり。ネクタイにカマーベスト、黒エプロンの彼は間違いなくイケオジだ。
「ん? どうかしたのかい?」
 視線に気づいたのか、不思議そうに少し笑って彼が私の顔を見る。
「あ、いえ……」
 熱い顔で笑って誤魔化し、珈琲を飲む。マスターはあの笑顔でいつも、私を惑わした。あの日も、そして今も。

 その日、私はパワハラ上司に自分の失敗を押しつけられ、さらに彼氏からフラれるというダブルパンチでボロボロになっていた。
「そこのお嬢さん。美味しい珈琲でも飲んでいきませんか?」
 ふらふらと駅への道を歩いていたら、そんなナンパまがいに声をかけられた。普通なら無視するところだが、とても優しげな温かい声で、つい振り返る。立っていたのは父ほどの年のおじさんで、眼鏡越しに私と目を合わせてにっこりと笑った。
「えっと……」
 バリスタスタイルで、買い出し帰りなのか手にはパンパンになったエコバッグが握られている。カフェの客引きなのかと考えていたら、さらに声をかけられた。
「熱い珈琲を飲めば、温まります」
 確かに、身も心も冷え切っていた。せめて身体だけでも温めなければ、帰り着けないかもしれない。
「そう、ですね」
「じゃあ、行きましょう」
 差し出された手に素直に自分の手をのせる。彼に手を引かれて着いたのは、アンティークなカフェというより喫茶店だった。
 勧められるがままにカウンターに座る。彼はすぐに珈琲を淹れはじめた。
「どうぞ」
 俯いたまま艶やかなテーブルの上をぼーっと見ていたら、唐突に珈琲の注がれたカップが現れた。
「……ありがとう、ございます」
 ぼそりとお礼は言ったものの、じっとカップを見つめる。ほかほかと湯気が上がるそれは、温かそうだ。手を伸ばし、カップを掴む。ゆっくりと口へと運び、珈琲を一口飲んだ。熱い珈琲は私を温め固くなった心を緩めた。
「……美味しい」
 ぽつりと呟くと同時に、目の前が滲んでいく。落ちたそれによって黒い水面に波紋が広がった。ぽたりぽたりとそれは落ち続ける。
「うっ、ぐずっ」
 静かに嗚咽を漏らす私になにも言わず、彼は黙ってグラスを磨いていた。
「その。ありがとう、ございました」
 最後にぐずりと鼻を啜り、涙を拭う。あのままひとりでいたら、二度と立ち直れなかったかもしれない。声をかけてくれた彼に感謝した。
「いいえ。貴方のお役に立てたのならよかったです。もう一杯、いかがですか?」
「あの、でも……」
 もう、夜も遅い。もしかしたら閉店して明日の買い出しの最中だったのかもしれない。断って席を立とうとした瞬間、ぐーっ!とお腹が派手な音を立てた。おかげで、みるみる顔が熱くなっていく。
「ケーキをお出ししましょう。新しい珈琲も一緒に」
「……お願いします」
 赤くなっているであろう顔で椅子に座り直した。少しして、ケーキと共に珈琲が出される。生クリームが添えられたガトーショコラは美味しそうで、昼食も取っていないせいもあってまたお腹が鳴りそうだ。
「……いただきます」
 甘いケーキが身体に沁みる。ぽつりぽつりと尋ねた答えによると、この店は彼が脱サラしてひとりでやっている店らしい。営業時間は気分次第、今日のように遅い時間までやっている日もある。
「その。……ごちそうさまでした」
 財布の中から千円札を二枚引き抜き、カウンターの上を滑らせる。
「いえ、これはいいんですよ」
 しかしそれは彼によって止められた。
「私の珈琲で貴方が温まってくれたんならいいんですよ」
 彼が、これ以上ないほど眼鏡の下で目尻を下げる。その顔が眩しくて、つい目を細めていた。
「あの、でも」
「これで貴方が常連になってくれたら安いものです」
 いたずらっぽく彼が片目をつぶってみせ、顔が熱を持つ。
「じゃ、じゃあ、ごちそうさまでした」
「またのご利用、お待ちしております」
 微笑む彼に見送られて店を出る。
「変な人、だったな」
 美味しい珈琲とケーキをごちそうになっただけで、それ以外なにもしてもらっていない。しかし、あんなに重かった心は軽くなっていた。

 その後、すぐに転職した。あの喫茶店には足繁く通っている。
「もうその人、何度注意しても直らないし、上司に言うのは告げ口するみたいで嫌だなって思ってたんですけど、いい加減報告したほうがいいかなって思うんですけど」
「ふーん、そんな人がいるんだねー」
 マスターの返事はそれだけで、答えは返ってこない。いつもそうだ。決めるのは自分であって僕じゃないよ、って。
「うん、次にやったら上司に報告します」
「そうかい」
 彼は笑って珈琲を淹れている。マスターは相槌くらいしか返してくれず独り言に近いが、それでも話せば考えが整理できるので、よく私は迷ったときにマスターに話していた。
「美希(みき)ちゃん、今日は雪が積もりそうだから早く帰ったほうがいいよ」
 マスターに言われて見た窓の外では、雪がどんどん降っていた。このままだと電車も止まりそうだし、彼の言うとおり帰ったほうがいいのはわかる。でも今日はまだ珈琲を一杯飲んだだけなのだ。
「あー、えっと。あとちょっと。ケーキ食べたら帰ります」
「知らないよ、帰れなくなっても」
 苦笑いでマスターがバナナケーキを切ってくれる。……あと、三十分くらい大丈夫。なんて思ったんだけれど……。
「嘘!?」
 僅かな間に猛烈に吹雪いたらしく、ケーキを食べ終わる頃には辺り一面銀世界になっていた。
「美希ちゃん、電車は動いているけどダイヤはかなり乱れてるって常連さんが」
 さらにマスターがとどめを刺してくる。雪はさらに降り続き、タクシーも難しそうだ。
「うー、どうしよう……」
 これは本当に家に帰れない。近くの安いホテルを探すか……などと考えていたら、マスターから予想外の提案をされた。
「美希ちゃん。よかったらうちに泊まっていくかい? この上が自宅なんだ」
「へ?」
 マスターの言っている意味が理解できなくて、変な声が出た。マスターの家に泊まる? それは嬉しいけれど、本当にいいのか? いやいや、きっと奥様が家にいるとかに違いない。マスターからは話を聞いたことがないけれど。
「あのー、本当にいいんですか?」
「美希ちゃんがいいなら」
 よしっ、これでマスターとお近づきになれるチャンス! ……とか思っていないとも。それに彼は私を親類の子のように子供扱いし、ここに通いはじめて三ヶ月が経つがいまだに一人前の女性として見てもらえない。だからこそ、こんな提案をしてくるのだろう。
 残っていた客も帰り、マスターと一緒に二階へと上がる。
「狭い家だけど気にしないでねー」
「……おじゃまします」
 おそるおそる靴を脱いで家に上がる。中は綺麗に片付いていた。
「あのー、ご家族は……?」
 家の中はしんと静まりかえっていて、人の気配がしない。
「ん? 僕は独り暮らしだけど?」
「あ、そう、なんです、ね」
 気になっている男性とふたりきりで一夜を過ごす。これは喜んでいいのか?
「お茶でも淹れるから座っててねー」
「おかまいなくー」
 台所へ向かう彼に声を返し、茶の間のこたつに入る。一階の喫茶店は洋風なのに対し、自宅は昭和レトロっぽかった。
「どうぞー」
 少ししてマスターがお茶を出してくれた。一緒にお盆にのせてきたみかんも置かれる。
「もらい物で悪いんだけどみかんもあるから。というか、食べてくれると嬉しい」
「了解です」
 苦笑いの彼に私も苦笑いで返す。独り暮らしなのに大量にみかんをもらってしまい、持て余すのは私も経験済みだ。
 お盆を置いてきたマスターが、斜め前に座る。手を伸ばせば触れる距離にドキドキしないかのかといえば……うん。そんな気持ちを隠し、みかんを食べながらたわいのない話をした。
「そう言えばマスター、なんであのとき私に声をかけてくれたんですか?」
 きっと、酷い顔をしていた私に同情してくれたのはわかっている。しかし、他の常連さん曰く、マスターはにこにこ笑って話は聞いてくれるが、他の人の人生に口出しはしない主義らしい。それは自分の経験上からもわかっている。なのにあの日、マスターは私に救いの手を差し伸べてくれた。
「んー、そうだねぇ。美希ちゃんの顔を見た瞬間、絶対にこの子の手を離しちゃダメだって思ったんだよね。なんだろう……運命、かな」
 マスターは笑っているが、そんなのあるんだろうか。でもあの日、マスターが声をかけてくれなかったら今頃、こうやって一緒にこたつに入ってみかんを食べていなかっただろう。
「あれじゃないんですか、親戚の子に似ていたとか? マスターいつも、私を姪っ子かなんかみたいに扱いますもん」
 思い出すとそれが不満で、ついぷーっと頬を膨らませていた。きっとこんなことをするから姪っ子ポジションから抜け出せない。
「そうかな……? 僕は美希ちゃんを姪っ子扱いしているつもりなんてないけど」
 よっぽど私の反応が面白いのか、マスターはくすくす笑っている。それにますますむっとした。
「僕から見たら美希ちゃんは可愛い子猫で、本当は可愛くて可愛くてかまい倒したい……」
 自分の言っていることに気づいたのか、そこで彼はあきらかにしまったといった顔をして急に口を噤んだ。
「可愛い子猫……?」
 とはいったい? 可愛いと言われるのは嬉しいが、子猫と相変わらず子供扱いなのには複雑な心境だ。さらに、かまい倒したいとは? いつもにこにこ笑っている裏で、そんなことを考えていたのか。
「あー、うん。今日、強く美希ちゃんに帰るように勧めなかったのは、下心あり?」
 眼鏡の奥からちらりと彼が、私をうかがう。下心ありとは、そういうこと……なのか?
「えっ、あっ」
 マスターの言葉の意味に気づき、一気に顔が茹で上がる。でも、年下だから御しやすい……とかではないよね?
「美希ちゃんとはそれこそ、親子ほど年が離れているのはわかってる。でももうこうやって言っちゃったし、これからは……」
 私のほうの手を床につき、彼がこちらに身を乗り出してくる。なにを、とか戸惑っている間にその唇が頬に触れて離れた。
「一気に距離を詰められたらって思ってるけど」
 おそるおそる顔を上げると、眼鏡越しにマスターと目が合った。目尻が下がり、にっこりと笑顔を作る。しかしそれはいかにも胡散臭くていたずらっぽかったに、顔から火を噴いた。
「あの、えと」
 ウブな生娘かないんだら、頬にちゅーくらいでこの反応はないと思う。しかし、マスターの手の上で言いように転がされている私は、彼を喜ばせてしまう。
「これから先が楽しみだなー」
 マスターは本当に愉しそうだが、そんな彼に弄ばれる私の運命はいかに?

【終】

Photo by Mike Kenneally for Unsplash.

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