私の幸せはどこにあるのだろうか。

私の幸せはどこにあるのだろうか。
ふと手の中のスマホをみて思った
多分ここではない。
ChatGPTに聞いても多分しらんと思う。
だって私のことは私しか知らんだろうから。

しばらくここで探ってみよう。自分が幸福な瞬間を。

中学生だか高校生のころ、温かい風呂、温かい飯、温かい布団が揃っているのが幸福だと思った。そこが私の最高の状態だったかもしれない。
あらゆるプレッシャーもなく
自由に絵を描いたり文章を書いたりして
別に誰に見せるでもなく、
ちょっと上手にかけた時だけ姉や母にみせておだててもらう
たまに笑ってもらう
あたたかい日は散歩をして
ゆるやかな坂道を好きな音楽を聴きながら歩く
描きたい絵やストーリーは脳内にずっとあって
守られていて幸せだった。

でも同時に強くなりたかった。一人で生きていく力が欲しかった。
一人暮らしもそこそこ幸せだったけど生活をしないといけないと強く思えば思うほど私の創造力は枯渇していった。やせ細って楽しくないものになっていったような気がする。生活の仕方がまずいんだろうか。
インターネットの時間が長いのも良くない。人の意見や感想ばかり見て私の思いなんてどこかに飛んでいってしまった。

顕著なのはほら、母が死にそうな時。
ずっとどんな気持ちになるのかグーグルに聞き続けた。
他人の母親の喪失した感想をかき集めて私の中に埋めた。そこから何か芽吹くかと思ったけどなにも芽吹かなかった。私は虚無だ。すっからかんになってしまった。他人のせいにしてはいけいない。私が選んだことなのだ。
いまから取り戻せるだろうか。あの頃の輝いていた世界を。
毎日本当に穏やかで、空想の中にとっぷり浸かったみたいな生活だった。
私はなにも生み出さないけど、それを世界が許容してくれていた。
今も別にわたしなどいなくても平気なんだろうけれど
仕事には追われているし、なくなれば不安になる。

お金を稼がねばならない。子供たちを育てねばならない。生活をせねばならない。良い人間であらねばならない。ただ、生きてその結果が良いものになれば理想なのだろうけれど、私はそうはできないからとても頑張らないといけなくて本当は苦しい。だが弱音は吐いてはならない。
こうしてどうせ誰も読まねーだろってところじゃないとダメだ。それでいて同じ気持ちの人がいてくれたら共感してくれるくらいの優しさがなくっちゃダメだ。どこもギスギス感じちゃう。

私の幸せはどこだろうか。夢中で仕事をしている時は嬉しい。人に認めてもらえるのも嬉しい。人から必要としてもらえるのも嬉しい。自分が自分として生きていることも嬉しい。幸せをもっともっと因数分解していく必要がある。今私はすっからかんなので自分で埋めなければならない。検索して他人に頼るわけにはいかない。掘り返して耕して空気を送らねば。

絵を描くのは好きだ。でも勉強するのは好きじゃない。好きじゃないけど割と得意だったので勘違いしてしまった。勉強ができるんだって。ぜんぜんそんなことなかった。テストで点が取れるだけで私はすっからかんのお馬鹿さんなのだ。でもそれがわかったので十分である。私のかわいい子供たちにはそんな過ちの仕方もあるんだよとおしえてあげよう。

絵を描けばいいんだと思う。多分。絵は描いている間も幸せだし、完成した絵をみるのも幸せになる。すばらしいものだ。編み物もいいけど、絵は場所も取らないし、お金もほとんどかからない。とてもいいものだ。描きたい絵が決まればいいんだけどそちらがどうにも湧いてこない。描き始めればいいんだろうけどなんだか勇気もでてこない。

人と話すのももしかしたら好きだったのかな。どうだろう。それはどうだろうか。人によるな。時もえらぶ。それならこうして一人で文章をつらつら書いてる方がよい。人との会話は今のところそこまで重要ではない。

インプットがずっと足りないんだと思っていたけど、多分違う。
インプットの質が不足していて、さらに内省する時間が足りてないんだ。
私は好きな小説を読み、好きなシーンを書き出したり、絵にしたりしてなんども咀嚼するのがよいのだろう。良くわからない情報ばかりシャワーみたいに浴びていたのでは良くなかった。賢い人はそれで重要な内容を取捨選択できるのかもしれないけれど、私には無理なんだ。ちゃんと一個ずつやらなくては。人が進めてくれた本を読んでみたけど、説明文みたいなテキストも私にはどうも染みないことがわかった。エッセイとかなら大丈夫だけど、やはり小説でなくては。
小説は心に染みる水、内省は心を耕す行為、そしてそこからやっと私の思いが芽吹くのかもしれない。

今日は一旦これを結論にしよう。

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