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一周、また一周。蠢きはじめるものたちと共に。

みなさん、こんにちは。
区切りをつけて新たな旅路を前にしている今、書くタイミングが来ているなと感じました。




方位磁針

最近、熱中しそうなコトへと向かっていくのがいいような気がしている。自分にとってはその指針が、より充実したこの人生をつくるときに頼りになる支柱のような存在になる予感がしている。


好きなことや得意なこと、これまで楽しかったこと、理想の自分の姿、見たい未来は、熱中しそうなコトに出会っていくためのヒントになるように思う。


だけど、それらはあくまでも「とっかかり」の手段であり、それらによってもたらされる「密度の高い時間」こそが自分の欲しているものであるように、今の僕には感じられる。


3月。火遊びがたくさんできた一年だった。



「20歳です。」



20歳の後半、年齢を聞かれ、答えるたびに「おお、自分はまだ20歳をやっているのか。」と少し驚いていた。


長かった。20歳の一年間は、びっくりするほど長かった。


書いていると、どういうわけか涙が出そうになる。嬉しい。


たくさん喜んだ。悲しいこともあった。自分をたくさん攻撃したし、たくさん褒めたたえた。うまくできたことも、盛大に失敗したこともあった。


僕の中で、大地震や山火事、台風、洪水も日照りも、たくさんのことが起こった。自然災害だけではなかったようにも思う。自分で山を掘り進めて決壊させてしまうとか、あったあった。


絶対にやるんだ、と決めて行動して最高に気持ち良くなって叫んだ瞬間も、だらだらと先延ばしにして結局やらずに後味が悪く濁ったような感情も、たくさん経験した。



昨年4月、島は思ったより寒かった。


3月末。桜の開花が離島前でよかった。



「もう秋か」「もう年が明けた」「もう3月なんだ」

月日はあっという間に過ぎていった。


「あれが終わってからまだ1ヵ月しか経っていないのか」「このひと月でこんなに変化があったのか」

過ぎていった月日を振り返ると、そこには予想をはるかに超えた高さの山が現れていた。


そこにどんなお宝が眠っているのか、僕はまだ知らない。まだ知らなくていい。

然るべきタイミングで自分を訪れるはずだと思う。
山をかきわけて宝を探しに行きたくなるときは自分でわかる。

長い年月をかけているあいだに、放っておいた種が立派な木へ成長して驚くこともあるだろう。

あるいは、風に飛ばされ、雨に流され、そこにいたことを忘れ去られていくものたちもいるはずだ。それでいいのだと思う。


今ここで生まれている言葉たちは、登山者たちの渇きを癒す湧き水なんだと思う。



8月、台風でがけ崩れだらけの家督山にて。


フライング、フライング、置き去り

時々、時間が何であるのか、すごく不思議になる。

目の前のバッタをただひたすらに追いかけていたあの頃、世界には過去も未来もほとんど存在していなかったような気がする。一瞬ごとの現在という永遠の中にいたのかもしれない。


海士では、小学生や保育園児たちにたくさん遊んでもらった。
僕は、一度失ったものをまた小さく育て始めるために、仲間に混ぜてもらいたかったのかもしれない。


鬼ごっこを始めたら最後、いつまでも飽きることがなく、相手の事情など微塵も気にせず駄々をこねる人たち。自分が発見したこと、嬉しかったことを全身全霊で伝えようとしてくる人たち。


大切なことを本当にたくさん教えてくれた。離島前、ありがとうの気持ちを込めて手紙を書いた時間は忘れられない。


3月、離島日、船上より。いつも通り、こっちなんてそっちの気だ。


全身で応える


多くを知りたがり、本を読むのが好きで、他者の影響はけっこう受けやすいところがある。

しびれるような思考や、つま先から温まるような心のありように出会うと、のびやかに、ためらわずになびいていくのだ。


しかし、冒頭の指針は、外からの情報ではなく、自分で気づいたら見出していた。

熱中しそうなことへと向かっていく。


紛れもなく、この身に起こった体験とそれに伴う学習から自ら導き出していた。

その意味において、僕にとってこの指針は、年月をかけて地中に根を広げていった樹木のような、芯の強さや根っこの確かさを感じられるものでもある。


だけれども、これからもどんどん揺れるのだろうと思う。昨日も今日も少しの風を感じていた。間違えや見落としに気がついて、素直にそれを認め、修正し続けることができたら、それは素晴らしいことのように感じる。


地上では揺れ続けながら、しかし地中深くを見に行けば、生きるっていうのはどういうことなんだろう、といつも「善く生きる」ことを求め続けている自分の存在に出会う。ただそこだけがぶれないという生き方に近づいていくなら、それは本望だ。


あるいは、善も真実もそっちのけで、ただひたすらに、生まれてきたこの世界に祝福されていることを全身で味わう。世界に、ありったけ応えようと、知らぬ間に必死になっているのかもしれない。



全部に宿ってしまうものなのだから、思う存分、揺れ続けていよう。


9月、お隣の知夫里島。今となっては親友の住処だ。



春に


ここに書いてあることは、僕のごく一部なんだと思います。というかほとんどフィクションなのだと思います。全部をぶつけようとしているけれど、できない。それは悔しくもあり、しかし同時に晴れ晴れしい。

晴れ晴れしいのは、きっと、断片的な物語にすぎないということが本当のところにより近いと感じるからで。日々変わっているし、そもそもが捉えきれないものたちであることを、大いに味わっている気分なのかもしれない。



自由と、それに付随する選択や決断、そんなものたちと向き合うことが多いのがここ数年の自分の人生かもしれません。

僕はこれまで、幸運にも、様々な場面で選択の余地(と同時に必要性)を与えられ、その度に自分なりに考えてきたつもりです。そうしたとき、いつも最後は、さて自分は何に重きを置くのか、今の自分の選択基準は何であるのか、ということを問われてきたように思えます。

偶然を含む捉えきれないほどの要素が複雑に絡み合ったうえで結果が決まるとしたとき、結果をよくしたいのであれば、選択の段階でこだわることの重要性はそれほど高くないかもしれません。さっさと決めてそこにコミットした方がきっと速い。ただし、僕自身は結果云々より、日々の一歩一歩に自分自身としてどれだけ納得感をもてるのかを追求しているところがあり、それゆえに、いかにやることとやらないことを決めていくかは、かなり大切なのだろうと考えているのです。

まえがきのような、あとがきのような





さとのば大学を受講しながら海士町で過ごした一年間を終え、まずは南米へと向かうことを決めている今、こうして足跡を残しておけて、満腹な気分です。




昇り、沈んでいく太陽。身体中を巡る血液。行き交う人々。ちょっとやかましい街。通り抜ける風。飛んでいくマスク。感じている。生きている。




4月。偶然は絶対であり、無と隣合わせ。













いただいたお金は、その時に世界がいきいきしそうなこと、輝きが増すと思うことに使います。