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【路地コラム】なんかいい路地botの「なんかいい」とは?


はじめに

私は趣味で「なんかいい路地bot」というTwitterアカウントを運営している。ただただいい路地の画像を収集することが目的で、良いカメラも持っている訳でも、旅に出る時間がある訳でもない私でも、運営することで全国各地を旅したような気にさせてくれる。

そんなアカウントだが、「なんかいい」というぼやっとしたネーミングが気になる方も多いのではないだろうか。これは敢えてぼやかしている部分もあるのだが、運営していて「なんかいいってなんだろうな」と思うことが多くなってきたので、脳内整理の為に、自分の中の「なんかいい」を構成する要素を書き出していくことにする。
ただ勿論、この意向に沿った写真を送らなければいけないことはないし、私の考えに合わない路地は良くない!というニュアンスではないので、画像提供の際は是非、こんな文章は気にせず、自分がなんかいいと思ったものを送っていただきたい。

読んでいくうちに「自分で何かを生み出している訳でもないのに偉そうに!」と感じるかもしれないが、ただ深掘りして考えるのが好きな故にウダウダと書いているだけなので、なんか楽しそうだな〜、ぐらいに思っておいてほしい。
あと実は未だに自分で撮った写真もこっそり紛れ込ませているので、完全に受け手に甘んじた訳ではないということも宣言しておく。


私自身の考える「なんかいい」の定義


掲載する写真の傾向によって反応がどのように変わるのかが気になるので、よくエゴサーチをする。
するとああでもないこうでもない、最高だ最悪だなどと色々なツイートが目に入ってくるのだが、
その中でも特に多い意見が、「最近“なんかいい”から“とてもいい”になってる気がして残念」というものだ。
言いたいことは概ね理解できるが、恐らくこのような考えの方々と私の「なんかいい」の認識には微細ながらズレがある。
きっとそういうツイートの根底には「なんかいい<とてもいい」という仮定があり、「大々的に取り上げるほどでもないけれど、さりげない良さを放っているもの」というイメージがあるのだろう。
しかし私の認識はそうではない。「なんかいい」と「とてもいい」は両立すると考えている。

じゃあお前の思う「なんかいい」の定義ってなんなんだよ!と言われると、なかなか分かりやすく簡潔な言葉にするのが難しいのだが、自分の中で一個軸としてあるのが、

「本来発揮する部分とは別な場所・観点から感じられる良さを、自分のきっかけで見つけること」である。

これだけでは分かりづらいので例を挙げると、
100万ドルの夜景が有名なレストランで夜景の写真を撮ったとする。確かに綺麗な写真が撮れるだろうが、そのレストランはそこを売りの一つにして商売しており、それが良いということは不特定多数の人が既に知っている。これは「なんかいい」とは言わない。
また、祇園の街並みやテーマパークの中など、景観を意識して作られたであろうものも、良いのはある意味当然であり、「なんかいい」ではない。
(決して“良くない”と言っている訳ではないのはお分かり頂けるだろうか……)

路地や道というのは、地形や交通等の様々な要因によってその様相が決まり、その殆どは誰かを魅了しようと作られたものではない。そんなものに、ふと感じる、容易には言葉にできない良さ。それが私の思う「なんかいい」の定義である。故に、その「なんかいい」が「なんかとてもいい」になっても別におかしなことではないと考えている。
この考えに基づくと、伝わるように撮っていれば、写真の上手い下手や、加工の有無はあんまり関係なく思えてくる。

ここからは余談だが、私も正直掲載する全ての写真に、私基準の「なんかいい」を感じている訳ではない。(何回も言うが良くないと言っている訳ではない。自分の思う”なんかいい”の範疇ではないな〜と思う写真もあるということだ)
しかし、じゃあ掲載しなければいいのでは?と言われると、それも違うのだ。
ありがたいことに毎度沢山の提供が頂けているので、更新頻度を下げれば掲載する中で自分の好みの写真だけを抜粋して運営することもできるだろう。ただ、この考えはあくまで現時点での私の考えであり、数年後、いや数ヶ月後には変わっているかもしれない。その為になるべく裾野を広げて、あらゆる路地や道路と向き合っていきたい。コレクションは幅広くしておくに越したことはない。
掲載の傾向に文句のある方もいるだろうが、私が投げやりにならずにこの意識を持ち続けていれば、様々な傾向の写真を掲載していくだろうから、たまに覗きに来て欲しい。

色々長々と語ったが、今回はその上で、その「なんかいい」を構成する要素は何なのか?というところを考えていきたい。




なんかいい路地と「不便」



「ミニマリスト」という言葉はすっかり一般的になった。所持品を可能な限り減らし、必要最低限のモノで暮らす人々のことを指すが、そういったライフスタイルに傾倒していく理由や動機は様々あるようだ。よく言われるのが「モノが減ると本当に必要なモノとの距離が近くなる」「モノが減ることで決断する時間が短くなる」等々だが、「不必要なモノの購入を避けて節約できるから」、「モデルルームのような部屋に憧れたから」という単純な理由でミニマリストへ変貌する人も少なくない。
それだけに留まらず、中には必要最低限のモノで生活すること自体に快感を覚える人も居るらしい(私の友人でもこういう人がいる)。ロールプレイングゲームなどでは、生活がギリギリな序盤はなんとか生きながらえることに楽しみを見出してプレイするものの、ある程度物資や装備が充実してくると飽きてしまう……なんていうのはよく聞く話だが、それに近いのだろうか。
私もこのゲームの例は非常に共感できるが、私の場合これはギリギリへの快感だけでなく「モノに溢れた、満たされた状態への辟易」も混在している。ひょっとしたら私たちの深層心理には、生きていくのが簡単すぎることへの嫌悪があるのかもしれない。勿論、その場合のゲームオーバーは「死」である為、そこは避けようとするのが普通の感覚だが、かといって生きながらえることが容易になればなるほど幸福を感じる訳でもないのは、こういったロールプレイングゲームの例からも予想できる。私を含めた若い世代は、理想の実現や更なる生活の安定を求めて定期的に訪れる困難に立ち向かい続けているので、まだその行く末を知らないのだが。

話は逸れるが数年前、アメリカで単独当選史上最高額となる830億の宝くじを当てた女性が話題になった。そのニュースを受けて「自分が830億当たったら何に使おうか」とに空想に耽った方も多いだろうが、私はこの空想の答えを未だに導き出せていない。830億なんてのはもし何かの間違いで手にしたら国内の長者番付トップ100の面々と戦えるほどの大金であり、きっとあらゆる悩みの種を圧倒的なマネーパワーで消し去ることができるだろう。しかし、もしかしたらこの先の努力の末に得られるかもしれない成果を、ある種の”バグ”で先回りして貰えてしまったことに肩透かしを食らい、全てどうでもよくなってしまうのではないかと少し怖気付きもするのだ。やることがなくなったゲームを決められた時間までやり遂げる自信がないし、そういう結末が待っているのであれば、830億って必要なのか?と考えてしまう。やはり進んでいくのであれば程よく先の明るく、でもしかし細い道が良い。

結局何が言いたいんだ?と思ったかもしれないがここから路地の話に戻すと、一般的な路地というのは通行における利便性が明らかに低い。きっちりと格子状に区画整理すれば路地なんてものを通る必要はなく、どの目的地の目の前にも車両で行き来できる街を作れるかもしれない。しかし、私はそういった利便性とは相反するところに価値を見出しているからこそ、路地を尊ぶのである。時代の流れによって、相対的に「不便」の烙印を押されてしまうモノは世の中に沢山あるが、そういったものを愛でる心理の中には、先述のロールプレイング・ゲームの例と似通ったものがある。「こんな狭いところ、通ってる人いるのか?」というような路地の写真に惹かれるのも、そういった心理からなのかもしれない。


なんかいい路地と『陰翳礼讃』

『陰翳礼讃』といえば谷崎潤一郎の有名な随筆だが、もう初出から90年近く経つにも関わらず現代においても多くの人々に影響を与え続けている。
(クリエイターのルームツアーとかで本棚に置いてあるイメージがある)
かくいう私も何を生み出す訳でもない癖に定期的に読み返しているのだが、この著書において谷崎の唱える日本の美学は「なんかいい路地」とかなり密接な関係にあるのではないかと考えている。短い上に青空文庫でも読めるので気になった方はそちらから全部読んで頂きたいが、それはそれとして、今回は特に関連性のある部分を紹介したい。

われわれは一概に光るものが嫌いと云う訳ではないが、浅く冴えたものよりも、沈んだ翳りのあるものを好む。

美は物体にあるのではなく、物体と物体との作り出す陰翳のあや、明暗にあると考える。

美と云うものは常に生活の実際から発達するもので、暗い部屋に住むことを餘儀なくされたわれわれの先祖は、いつしか陰翳のうちに美を発見し、やがては美の目的に添うように陰翳を利用するに至った。

全て、谷崎潤一郎『陰翳礼讃』本文から引用


陰翳か〜。言われてみると確かにその嗜好は自分も何となく分かる気がするが、これを読まずして自分の口からは出てこなかっただろう。美しいものはなぜ美しいのかって、今まであまり考えてこなかったなと痛感する。

それはさておき、日本人が陰翳に美を見出した要因として、谷崎は「日本家屋の屋根は庇が長く、その陰翳の中に家造りをした為」と推測している。その後にも横殴りの風雨等、気候風土により是非なくしてこのような建築様式になったのではと続けており、そうであるならば引用の通り、実生活に起因している。
また、「浅く冴えたものよりも、沈んだ翳りのあるものを好む」とあるように、日本人には宝石や器物においても一点の曇りのないピカピカなものより、濁りを帯びたものに深みを感じる性質があることも指摘している。皆さんは共感できるだろうか。

この二つの嗜好は、陰翳に美を見出す価値観と併せても「明瞭になりすぎないこと」を重視している点で一貫性があるように思う。これは何も実態のあるものだけに限った話ではなく、文学や映像作品、写真においても通ずる美学である。
例えば、物語においても意味が全て分かってしまう作品よりも、理解し難い部分がある方が凄味を感じることがある。この凄味は自然発生する場合もあるが、技巧により敢えてこれを生み出すクリエイターも勿論存在する。私がかつて読んだ、筒井康隆の小説技法の本にこのような記述があり、それが分かりやすかったので紹介する。

だがプロの作家ともなれば、技巧によって凄味を出したりもする。(中略)
理解不能な人物を登場させたり、舞台設定をあやふやにしたり、登場人物に心に存在する闇の部分をほのめかしたり、作者であることの優位性を利用して必要なことを読者に教えなかったり、ここから先は作者にしかわからないのだということを強調したり、つまりはその作品世界の「底の知れなさ」を読者に感じさせるのである。

筒井康隆『創作の極意と掟』より引用

プロの作家恐るべし。
あらゆるジャンルの作品においてこうした凄味が感じ取れ、それを受け取る者がいる限り、この美学は現代にも受け継がれていくだろう。


路地もその道の細さ故、陰翳とは切っても切り離せない関係にある。また、路地として現存するような場所の多くは、都市開発の進んでいる地域の駅前のように清潔に、整備されたものではない。それ故に、陰翳を利用した日本家屋や、錆の乗った器と同様に惹かれるものがあるのだ。
では陰翳はいいとして、路地における”錆”はなんだろうか。
ひび割れたアスファルト、色褪せた標識、雑多な建造物……
そういった”錆”を探すのも、これまた路地の楽しみ方の一つである。



なんかいい路地と「スリバチやま」

ポケモン金銀・クリスタルバージョン 攻略情報【GSC】より

スリバチやまとは、ポケットモンスター金・銀、クリスタルの舞台であるジョウト地方のダンジョン(洞窟)である。

私が初めてポケモンをプレイしたのは小学生の頃に親に買ってもらったクリスタルバージョンだったのだが、本当にワクワクする大冒険が味わえ、友達や家族に色々と教えてもらいながら、クリアを目指したものだ。
今となっては特別ポケモンに思い入れがある訳ではないが、四天王とのバトルや伝説のポケモンと草むらで遭遇した時などの、手に汗握る感覚は未だに覚えている。

スリバチやまにもその大冒険の道中で出会ったのだが、このスリバチやまはジョウト地方で最大の洞窟ダンジョンで、ただでさえ広大なのにその広いエリアが4フロアもあり、更に内部は複雑に入り組んでいる。予備知識のない小学生が迂闊にズンズン進んでいくと確実に迷ってしまう。
また、アイテムの関係で初見では辿り着けない箇所もあり、最深部まで到達するのは子どもたちにとってはかなり骨の折れる所業だった。
その為、当時は入る度に初めて到達する場所に出会い、「え?こんなところあったの!?」と思わされた。全体像を見渡せないので今どこに居るのかも分かりづらく、まさに天然の迷路である。


そしてなんとこのスリバチやま、プレイした方はご存知だろうが、ストーリー攻略上は特に立ち寄る必要がないのである。
滅茶苦茶に広くて中には水路や滝もあり、いかにもストーリー攻略に重要なイベントが待っていそうな雰囲気を醸し出しているが、実際は複数のアイテムや技マシンが落ちているのと、最深部に珍しいポケモンをくれるトレーナーがいるのみ。一回も立ち寄らずにストーリーをクリアできてしまう。
しかしこの肩透かし感も含めて、私はスリバチやまに妙に愛着が湧いている。「こことここが繋がってるのか!」とか「滝を登ったらこんなところにアイテムが!」とか、発見が多かったなあ。ストーリーに関係ないのに。

個人的に、路地においても「なんかいい」を一番感じられる瞬間は、やはり初めて見つけた時ではないかと思う。その路地がやがてお気に入りの路地になっていくこともあるだろうが、きっと初めて見つけた時の感動には敵わない。

と言うのも、商店街などを一部のものを除いて、路地は「当たり前にある存在」ではない。
……うーん、言い方が難しいが、殆どの路地は、中に隠れ家的な喫茶店やバーがあるとか、ここを通ると自宅やどこそこへ近道であるとか、通る目的が他の道路にも増して限定的であり、その目的を果たそうとしない限りは基本的に出会うこともなく、「この路地は有名だから通らない人でも知っている」なんてことはあまりない。だからこそ、今までその限られた目的を果たそうとしてこなかった人が、なんらかのきっかけでその路地を発見した時、「こんなところがあったのか!」と感動を覚えるのだ。
しかし、もともとはその限られた目的とは縁のない人だったのだから、中を通ってみてもその先に目的地がある訳でもなく、十中八九「ああ、こんなものか」と思うのだが、それもまた醍醐味と言えよう。ストーリーに関係のないスリバチやまのように。



なんかいい路地と「Liminal Spaces」


上記の画像を見て、皆さんはどう感じるだろうか。


リミナル・スペース、並びにリミナリティは、数年前から徐々に盛り上がりを見せ、ミーム化している概念である。中でもTwitterアカウント「Liminal Spaces」のフォロワーは100万人以上に及び、世界中にファンが存在する人気ぶりで、Twitterでの反応を見る限り日本のファンも少なくない。

「Liminal Spaces」に投稿される画像を見ていくと、共通して無人の空間であることが分かる。病院の待合室、ボウリング場、ホテルの通路、大浴場……どの画像を見ても耳鳴りがしそうな程がらんとしている。その為、「無人の空間に惹かれる人達のコミュニティなのか!」と早合点してしまう人も居るかも知れないが、調べていくとどうもそれは半分正解で、半分不正解らしいことが徐々に分かってきた。

そもそも私はこのアカウントに出会った時、「Liminal」という単語を知らなかったので、まずインターネットで「Liminal 意味」と検索をかけたのだが、そこで初めて「リミナリティ」という概念にたどり着いた。
その「リミナリティ」の説明がこちらである。

リミナリティ(「敷居」を意味するラテン語のlīmenが由来) は、人類学において通過儀礼の対象者が儀礼前の段階から儀礼完了後の段階に移行する途中に発生する境界の曖昧さまたは見当識の喪失した性状を指す。

weblio辞書より引用


どういう意味!?通過儀礼って何!?

自分が何となく見てきたLiminal Spacesの画像たちと全くイメージが繋がらなかったので、Wikipediaでも調べてみると、このような記述があった。

ホテルの部屋はリミナルな場所である。一時的かつ限定された目的でただ睡眠だけのために使用される。

特定の場所や、広大な土地、国といった大きなエリアもリミナリティの空間的次元に含まれる。国境や辺境、無人地帯、紛争地域、交差点、空港、ホテル、浴室もリミナルな場所とされうる。

Wikipediaより引用

なるほど。
限定された目的で使用されるということは、その目的を果たす時以外は使われないということだ。
浴室が一番分かりやすいが、一人暮らしで1日1回、30分の入浴をする居住者の浴室は、1日のうち残りの23時間30分をも無人の空間として構えていることになる。
浴室がリミナルな場所であることと、「Liminal Spaces」に掲載される画像の傾向からすると、誰にも目的を果たされていない、意味を喪失した状態の空間がリミナル・スペースということか。これなら「Liminal Spaces」に投稿される画像たちのイメージとも合致する。

23時間30分の浴室の例のような、意味を喪失した状態の空間には本来直接立ち会えない。何故なら基本的には自分が行くことで意味が発生しているからである。だからこそ、その空間には「人間にとっての希少性」が発生し、それを捉えた画像は人々を魅了する、ということではないか。

惹かれる理由として私が考えられるのはせいぜいこの程度なので、
更に追求している他の方の記事のリンクを貼っておき、リミナル・スペースそのものについての話はこれくらいにしておく。


ここから路地に話を戻す。

「なんかいい路地bot」を運営していて、「Liminal Spacesみたい」とコメントを頂いたことが何度もある。そうかなあ?


うむ、確かに。

先述のWikipediaの条件からすると、路地も「人が通る」という一時的かつ限定された目的で使用されるので、リミナル・スペースであると言える。
人通りの多い路地などは、基本的には意味を喪失している時間が少ないが、「なんかいい路地bot」は人の顔が映っている画像はそのまま掲載しないようにしているということもあり、提供してくださる方々もなるべく通行人が映らないように映らないようにと撮影しているに違いない。そうなると必然的に意味を喪失した状態の路地のように撮れてしまうのだ。
しかしこれは私個人的には、理想の「なんかいい路地」に必須の要素ではなく、あくまで偶発的に発生した別の要素としての良さと考えている。含むもよし、含まぬもまた良し、である。



まとめ

項目を増やしすぎて、かなり重たい記事になってしまった。全部読む人は果たしているのだろうか。色々書いてきたが、それぞれの項目で書いた「なんかいい」をざっくりまとめると、

☆(交通において)不便で、変化や時代に取り残されつつあるものに感じる「なんかいい」

☆明瞭すぎず、(概念的な)翳りや燻みが感じられる「なんかいい」

☆普通に過ごしていたら見つけられなかったものを発掘、発見する喜びとしての「なんかいい」

☆意味を喪失している空間の希少性に感じる「なんかいい」

以上。これが現時点で私の考えるなんかいい路地botの「なんかいい」を構成する要素である。

皆さんが出会った路地に感じる「なんかいい」は、上記のどれかに当てはまるだろうか。それとも、どれにも当てはまらないだろうか。

「なんかいい」を感覚で味わうのも良いものだが、何故良いのか、深く考えるのも個人的にはとても楽しい。興味を持った方は是非、そんなことを考えながら街を歩いてみてほしい。新たな「なんかいい」に出会えるかもしれない。

(終)


余談ですが、私自身のプライベートの事情により7月以降は更新頻度を少し落とす予定ですので、予めご了承ください。
いつもたくさんの画像提供ありがとうございます。

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