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「探偵屋の恋女房」著桐乃乱
第三話
小学校低学年の頃、私は放課後になるとテッちゃんの家で過ごしていた。
店で忙しい母さんの代わりに、テッちゃんママはお菓子の作り方を教えてくれた。型抜きクッキーやロッククッキー、絞りクッキーにメレンゲ。テッちゃんのお気に入りはアーモンド入りクッキーのココア味。
男子中学生は私が作ったハート型クッキーを、ペロリと平らげた。
『うまいな』
『小春、テッちゃんのお嫁さんになれる?』
『なりたいのかよ……』
『うん!』
『……』
私の無邪気な逆プロポーズに、思春期マッチョは無言でスルー。テッちゃんはクール男子なのだ。
高校を卒業した彼は探偵屋になった。武道で鍛えられたテッちゃんは、ひょろ長い身体がみるみる変身して、ヨダレもののマッチョボディに……。
探偵屋は組長さんから『○○組について調べてこい!』とか命令されて走り回ってるのかなぁ、なんて呑(のん)気(き)に考えていた。
テッちゃんの頬にファーストキスをした私は『はがして見せて』とねだった。傷はくっついていたけれど、少しへこんで赤くなっている。明らかに敵から襲われた傷だ。ショックで泣き出した私をテッちゃんが抱き寄せたので、ビックリして涙が止まった。
『泣くな、小春。傷はもう痛くないし、俺は死んじゃいない』
ドクン、ドクン。ドクン、ドクン。
力強い鼓動が私の耳から伝わってきた。トレーナーやジーンズが固い筋肉や熱を阻んでいるのが歯がゆい。ああ、もっとマッチョプリーズ。セーラー服がシワになるのも構わずに、たくましい背中へ手を回した。涙が布に染みちゃうけれど顔を押し付けて深呼吸する。醤油やタバコが混じった父さんの匂いとは違う、男の人の匂い。テッちゃんはコロンをつけていなかった。
『危ない仕事もしてるの?』
『言葉の綾(あや)だ。探偵屋は色んな仕事をする。だが内容は言えない。わかるな?』
『うん。でも心配だから、寝る前に電話していい?』
半分の心配と、半分の恋心から出た我が儘だった。
『いいか小春、用事があるならメッセージをよこせ。電話していいのは緊急事態だけだぞ』
『火事や泥棒とか?』
『誘拐やレイプもだ。イケメンにホイホイついて行って、AV出演するんじゃないぞ』
『テッちゃんのバカバカ! 私はテッちゃん以外について行かないもん!』
『だから、それも問題なんだって……』
あのとき、テッちゃんのお嫁さんになるには覚悟が必要だって知った。ヤクザのお抱え探偵屋が浮気やストーカーを追跡してる訳がない。きっと危ない調査をしてるんだ。
私はテッちゃんに何ができるのかな。テッちゃんが私に笑いかけるのは、食べているときだ。そうだ。もっともっと修業をして、おいしい料理を食べてもらおう!
あの決心は父親の負債が発覚して、もろくも崩れ去った。
借金まみれの親がいる私を嫁にしてくれる人なんて、誰もいやしない。
ううん。私が結婚したいのはテッちゃんだけなの……。
まなじりから涙が決壊した。衣類と書かれた段ボールからタオルを取り出すと顔を覆い、嗚咽をこらえた。肩だけが悲しみの震えを止められない。
ああ。私は街をでなくちゃ――。
改装費用の足しに、と母さんへ渡した五万円が封筒に入っていた。次に段ボールの中から通帳の入ったポーチを取り出す。これも花京院家へ渡せばいい。
丸川のお祖父(じい)ちゃんに少しの間おいてもらい、ファミレスで働こう。父さんの借金は少しずつ返済するんだ。
私には「マッチョフォルダー」がある。これを一生の宝にしよう。
小さい頃からお世話になった人たちへ不義理を働くわけにはいかない。
母方の祖父は両親の結婚に反対だった。父さんのギャンブル好きが原因だ。事情を知ったら父さんを殴ろうとするに違いないけれど、祖父(じい)ちゃんがギックリ腰になりかねない。
顔見知りに会うのを避けて、北側の裏路地を小走りで移動する。三角公園のミヤギノハギは夜霧でぬれていた。上着を羽織ってきてよかった。今夜はちょっとだけ肌寒い。
雑居ビル一階のポストには錠があったが、エレベーターに乗り込んで五階のボタンを押した。テッちゃんにひと目会いたかったけれど、黙って去ることにした。ドアの前にポーチを置いたらピンポンダッシュで逃げればいい。
ポーン。
手順を確認しながらエレベーターを降りた。最上階は茶色い鉄製のドアがひとつだけあった。これがテッちゃんの自宅に違いない。
何と、部屋の主がドアの前で倒れていた!
「テッちゃん!」
慌てて三メートル先まで走った。ただの酔っ払いなら歓楽街で倒れていても介抱なんかしない。せいぜい交番の警官を呼ぶだけ。絡まれてラブホに連れ込まれかねないから。でも愛しいマッチョ探偵は腕から血を流している。明らかに緊急事態だ。白いTシャツやジーンズが、みるみる紅に染まっていく。このままじゃダメだ。薄手のジャンパーを脱いで、左上腕を圧迫した。
「テッちゃん、しっかりして」
「うう……小春か?」
「うん。待ってて、いま救急車を……」
ジーンズの尻ポケットからスマホを取り出した私の腕を、テッちゃんが掴む。もの凄(すご)い力だ。
「中へ入れてくれ……」
「だって血が」
「頼む、小春。俺を助けてくれ……」
彼の吐く息がアルコール臭い。どれだけ飲んだのだろう。マッチョな大男が私の腰にすがりついて唸る。渡されたカードキーをかざし、ドアノブを回してみたけれど開かない。
「待て……認証が必要だ」
「認証?」
ふらつくテッちゃんを支えた。重い。何キロあるの。百キロくらい?
テッちゃんが壁の黒いプレートに額を近づけると、カチリと音がして玄関が開いた。三和土(たたき)を二歩進んだだけで、マッチョ探偵は再び倒れてしまった。パッと自動照明がついて、長い長い廊下が照らし出される。
「テッちゃん!」
「下駄箱の一番下から、銀色のケースを取ってくれ……」
大男が顔を赤くし、息も荒くなっている。急いで扉を開くと、膝をついて右手を伸ばした。黒いスニーカーの向こうに……あった。二十センチ四方のケースは赤いビニールテープで封がされている。未開封の新品てこと?
中身は何なの?
「中の容器を出すんだ」
短い爪でひっかき、テープをはがして開封するとビニールのパッケージがふたつ並んでいた。
「どっち?」
「同じものだ。開けたらキャップを外してよこしてくれ」
ビリッと勢いよく破ったら、中身がフローリングに転がった。
「ごめん……あっ」
拾ったのは細い注射器だった。
「これなに。なんの薬?」
動揺する私の横で、壁にもたれたテッちゃんが右頬を歪める。
「解毒剤だ……ほら、いい子だから渡すんだ」
声に従ったけれど、テッちゃんの震えがひどい。注射器は再び床に落下した。
「畜生。小春、俺の腕に打ってくれ」
「ええっ⁉」
看護師でもないのに?
「早く。でないと俺は……」
解毒剤って言ってた。この薬がないと、テッちゃんが死んじゃう!
途切れ途切れの指示どおりに消毒して、マッチョな右腕に注射した。
「いい子だから、目を閉じないで打ってくれよ……」
「毒がまわってるの?」
テッちゃんが注射器を抜き取ってしまった。とにかく、これで助かるんだよね?
「いや……アルコールだけだ。俺は……くそっ。ベッドへ行くぞ」
「待って」
もう一枚アルコール綿があったのでパッケージを破いて左腕を消毒した。幸い血は止まっていたが刺し傷じゃないみたい。
「これはどうしたの?」
「バーのグラスが割れて、かすった」
喧嘩でもしたの? 靴を脱がせて巨体の脇腹に両腕を差し込んでみたが、重くてビクともしない。テッちゃんに喧嘩を売るなんて、グリズリーに噛みつくリスより無謀だよ……。
「ぐえっ」
「小春は小さいなぁ……」
「寝室はどこ?」
「あっちだ」
廊下の突き当たりまで彼を支えたが、重さに耐えきれずダブルベッドへなだれ込んだ。濃いブルーのベッドカバーにお揃いの大きな枕。テッちゃんによく似合う、ガッシリした木製のヘッドボードにサイドテーブル……。お部屋拝見タイムはあとあと。
「水……」
酔っ払いには水よ――。
母さんの声が脳裏をよぎる。慌てて廊下を戻りながらドアを開けていく。奥にキッチンがあると目星をつけて、三番目の部屋へ足を踏み入れた。ビンゴ。冷蔵庫のミネラルウォーターを掴んで走った。
テッちゃん、待ってて!
救急車を嫌がるだなんて、敵に何されたの?
もしかして、お酒にヤバい薬を盛られたとか?
だから警察に通報されたくない?
昼下がりのサスペンスドラマじゃ定番のシナリオだ。
「はい、お水」
ヘッドボードに寄りかかりながら水を飲むテッちゃん。三分の一を空にして、短く刈り上げた頭を枕につけた。何やらムニャムニャとつぶやいている。
密閉した室内は七月上旬にしては暑い。窓を開けるべきだろうか。
「どうやら死なないみたいだね……」
「死ぬ前に、お前にキスしときゃよかった……」
やっぱり酔っ払いだ。分(ぶん)町(ちょう)で見かけた美人と勘違いしてるんだ。
ムカムカムカッ。
「まだ生きてるでしょ」
チュ。ここぞとばかりにテッちゃんにキスした。唇は、お酒の風味だった。
「駄目だ小春。お前、まだ高校生だろう?」
え、私って認識してる? でも高校生と勘違いしてるよ。
「私はもう大人だよ、テッちゃん」
自分の胸元へ大きな手を持って行く。
「あの頃より三カップも大きくなったんだから!」
ドヤ顔で触らせたが、この先がわからない。ああ、経験値0の悲しさよ。
よし、こうなったら千佳ちゃんの新作BL漫画「デリヘルボーイ学園K助~上司から指名入りました!」の主人公を真似るべし!
おっと……酔っ払い相手は無理だった。仕方ない、ジーンズを脱がせたらいいかな。ほら、寝苦しいでしょ。
決して下心なんかじゃありません!
「テッちゃん、腰を浮かせて。ほら、ジーパンを脱ぐの!」
「こはるぅ……俺を襲う気だな」
「それは今度ね」
来世しかチャンスはないだろうな。ズキリと胸の奥が痛む。毛むくじゃらの太腿と黒いボクサーパンツ。下着の前が大きく膨らんでいた。
これが平常時の大きさなの? 基準が分からない。サイドテーブルのリモコンで照明を絞った。これで安眠できるはずだ。
「なんだと。こはるぅ、俺が好きじゃないのか?」
「大好きだよ。テッちゃん」
最後の告白だった。これでさよならしないと。私は借金トンズラ王の娘なのだ。
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