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人生の意味を見つけ出すのは難しい。けれども不可能ではない。歓びも大きい。

神の存在に気づき、私が〈神の愛の対象〉だと知ること。それが私にとっての最大の意味だ。

そしてそれを伝えていく事が私の目的。
さらに私に与えられた家族は私の担当だ。それは、私が選び取った人たちだ。
伝えるというのは、言葉ではなく、その行為だ。

聖書に〈天国は、あそこにある、ここにあると言うようなものではなく、まさにあなた方のただ中にある〉と書かれている。
また別の箇所には〈天国への道は、ラクダが針の穴を通るより難しい〉とある。
本当に長く苦しい道のりだった。
常に死を想っていた。諦めかけていたのだ。
イエスの言われる〈自分の罪〉というものが、私の認識と違っていた事に気づく。それを知る事も認める事も分からなかった。そして苦しみだけがあった。長い間、何かを赦されたいという想いが充満していた。知り、認めなければら神の赦しなど解せないし、必要ではない。

結果、苦しみと同じくらい歓びも大きかった。本当の意味で両極があることを解した。この体験があのいくつもの〈ことば〉の意味なのだ、と理解に至る。私は体験しなければ解することができない。先に情報を得、疑問が始まる。〈求めよそうすれば、与えられるであろう〉そう言われて、ならば求めましょうと求め始めるというものではない。ただ本当の事が知りたい…その本当の事というのが何なのかも分からない。〈求めよ〉と言われている事が〈何を求めよ〉かも分からなかったが、本当のことが知りたいという欲求は止まらなかった。見つけ出して、初めて、私が求めて止まなかったのは、このことだったのだ…と分かることになる。その時「私は自分が求めているものすら分からない存在です」と告白する。体験ののちに理解に至る。見事に出来ている。

そして、やっと数々の〈イエスのことば〉の意味を解した。1982年、35歳の頃だった。いくつもの誘惑を体験し、それは今、私の中で不動のものとなっている。

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