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生き延びるために受験に挑む

進学校の落ちこぼれだった私

私はいわゆる「進学校の落ちこぼれ」である。
私の家庭環境を考えれば、自分の人生に興味を失い、勉強にも入らなくなったのは致し方ないとはいえ、今でも、もったいないことをしたと思うことはある。
現状に不満があるとか、人に自慢できる仕事に就きたいとか、ましてや、より良い給料がほしいとかではなくて、もっと、私は自分の限界を追い求めるべきだったと思うからだ。

暴言は続くよどこまでも

幼稚園の頃から続いていた父から私への暴言であったが、高校に入ってから更にひどくなった。
高校から戻るなり、
宿題が山積みなのに「家事の手伝いをしろ」と怒鳴られ、
部屋で勉強をしていれば、「部屋に閉じこもってばかりいる!」と切れられ、
少しでも反論しようものならば、「親を馬鹿にしているのか」とまた怒鳴られる。

そして夕食時には些細なこと(TVをちらっと見た、茶の飲むタイミングがおかしい。食べる順番が父の考えているとおりではない)で父は怒り狂った。

「おまえみたいなみっともないヤツはいらない」
「おまえのせいで家庭内がギスギスする」
「おまえのせいで金がない。好きなことができない」
「おまえは冷血だ。人じゃない」

という内容の暴言を受け続け、私は完全に気力を失っていた。
申し訳ないのだが、この暴言のニュアンス思い出せるものの、その具体的文言までは思い出せない。
あまりにひどい暴言を受けた夜など、翌日まで引きずってしまい、学校で友人たちからは「今日は元気ないね? どしたん」と言われるほどだった。

私からすれば、家族内の不和をなぜ私のせいに全てされるのか、理解不能だった。

両親の仲が悪いのは、私が幼い頃からずっとだ。
私が原因ではない。

家庭内がギスギスするのは、父が些細なことで怒り狂い、暴言を吐くからである。
私が原因ではない。
事実、父が出張で長期不在の際は、母もストレスが大幅に減少するらしく、ずいぶん私への態度もマシになったものである。

金がないのは父が次々とものを買ってくるからである。
父の収入は決して少ないわけではなかった。
あまりに金がない金がないと文句を言われるので、私は奨学金を取ろうとしたが、取れなかった。
それは父の収入が奨学金を申請できるラインを超えていたからだ。
その上家は相続した持ち家があり、固定資産税はあったが、所詮は田舎の家だ。
それらをトータルしても住宅ローンを組むよりは安いだろう。

そう、どれもこれも父に原因にあることである。
なのに、私が原因でない事を、ずっと私のせいにされ続けた。

これらをまとめて言うならば――、
父は、「自分は稼いでいるのに自分で全部自由に金が使えない」という鬱憤を全部私にぶつけていたのである。

こんなの誰でも嫌だろうが、私は覿面に「謂れのないことで怒鳴られる」のが嫌いになってしまった。

母は父の暴言によく怒っていたが、私に対しても「自分で反論しろ」と怒っていた。
母は父と対等の立場だから発言がまだ許されているのだ。
私と父は対等の立場ではないから、発言は一切許されない。
発言した時点で父の怒りに油を注ぐようなものである。
弟は無言で小さくなっていた。何か言えば自分に火の粉がかかるのは明白だったからだ。

とにかく、私は常に家族のサンドバッグだった。
こうなると勉強の代わりに自分を哀れまないと、とても心を保てなかったのだ。

それなら外に出て勉強すればと思われるだろうが、片田舎では学生だけでファミレスにいること自体が異様に目立つ。場合によっては高校に連絡に行ったりもするため、使えなかった(補導まではされないが、職員室に呼び出されて軽く説教されたように思う)。
しかも都会のように何店舗もあるのではない。
なんとたった一店舗!
それに加え、私にはファミレスに毎日に行くような小遣いはなかった。
私の成績は、高校入学当初は上位の方であった。

が、成績に異変が起きたのは数列当たりからだ。

なんだか、先生に言っていることが、理解できないのだ。
頭がもやがかって、ふわふわとする。
数学だけではない。
他の科目も同様に、頭に入ってこない。
どれだけ勉強しても身にならない。

ぶっちゃけ、この年齢になってから数列の解説を読むと、それなりに理解できたので、当時の私は相当に参っていたのだろう。
こうして成績はだんだん落ちていき、二年生のころには最底辺近くにまで落ちた。
そのころの家庭環境など思いだしたくもないし、思いだせもしない。
他人からしたら耳を疑うような詰り方だったに違いない。

毎日「死にたい」と思いつつ、学校で友人と喋るのを楽しみに、生きていた。

まさに地獄のような日々だった。
あの環境からすれば、ある意味当然とも言える成績だった。

私にはもう生きている意味がない

親としては進学校に入れた体面も有り、高校2年生のころに私を慌てて塾に入れたが、時既に遅しだった。
ある程度までは私の成績は持ち直したが、親が望むような自慢の成績にはほど遠かった。
私の勉強の意欲もすっかり落ちていた。
当たり前だ。
勉強の意欲の前に、生きる意欲がなかった。
それでも細々と毎日を繫いでいたのは、友達と会いたかったし、イラストも描きたかったから。
本当にそれだけだったのだ。

子どもが弱っていくのは、私の両親だって見ていたはずだ。
どうみても覇気がないのだから。
でも両親の暴言嫌味は止まなかった。
大学受験の経験のない両親は、子どもの受験の大変さを全く理解も想像もせず、相変わらず、自分の気分のままに、暴言嫌味を吐き続けていた。
受験は大変かと訊かれたこともないし、私は愚痴ったこともない。
愚痴れば「おまえの努力が足りないからだ」とあざ笑われるのは目に見えていた。

しかしながら……。
入学当時は難関国立も受かるだろうと言われていた生徒が、今や最底辺の成績。
当時、どんな勉強をしていたのか……。
進学校に進んだ矜持から、宿題と予習だけはやっていたようには思う。
塾の課題もこなしていたが、こなした分だけ身になったかと言えば難しい。
私の勉強の効率はすこぶる落ちていた。

定期試験もできうる限り勉強はしたものの、赤点を取らないためというもので、決して良い点を取るためにする勉強ではなかった。

だって。
家族に「要らない」と言われ続けた私には、もう生きている意味がなかったからだ。

私は両親に死を願われるほど、私は悪いことをしたのだろうか……?

……してないと思うけど、違うみたいだ……
私は生まれない方がよかった。
生まれなかったら、こんな辛い思いもせずに済んだ。
早くこんな人生、終わっちゃえばいいのに。
何もない。
私には何もない。
しあわせなんて何もない。
私はしあわせから見捨てられたんだ。

私が死んだ方が、家にお金が増える。
私が死んだ方が、家族が毎日笑顔になるんだろうな。
私が死んだ方が、地球の環境にもいいのかも……空気も食料も私に使うのは無駄遣いだ……
私が死んだ方が、世界のためになるのかな。

私が死んだ方が、いい人間なんだ。

私には、生きている価値が存在しない。

滅茶苦茶かもしれないが、そのときの私は、そう本気で思っていた。
自殺に踏み込まなかったのは、祖母と友達だけは、私が死んだら泣くかもな、とうっすら思えたからだ。
私は祖母と友達を泣かせたくなくて、毎日「生きる」ことを選択した。

すごく、苦しかった。
私にはもう生きている意味も価値なんてないのに、なんで生きなくちゃいけないのだろうか?
誰も答えてくれなかった。
私は誰にもこの思いを言えなかったからだ……言えるはずがない。
こんな家庭環境、誰が想像できるというのだろう……?


原因不明の睡魔

そしてもう一つ、私の成績が低落した原因がある。
高校二年あたりから、私は原因不明の睡魔に悩まされていた。
どれだけ寝ていても、授業中意識が「落ちる」のだ。
眠いと感じる前に、ぷつんと意識が切れる。
パソコンのシャットダウンのようなものだ。
気がつくと私は机に突っ伏して眠っていた。
当然先生からは叱られたし、友人達も起こしてくれたが、ダメだった。
とにかく意識が落ちる。
落ちてしまうのだ。
まるで「限界だ」と身体が訴えてくるかのようだった。

また、親は「自慢できる仕事に就ける学部」にこだわった。
当時の私はイラストを描くことが大好きで、もし、自由に進学先を選べたのならば、私は美大に進みたかった。
絵は子どもの頃からずっと描いていて、別に芸術的素養が私にあるとは思わないが、とにかく楽しかった。
親に絵を捨てられようが、馬鹿にされようが、私はひたすら描き続けていた。

また、動物も大好きで、動物関係の仕事も良いと思っていた。

ただ、親は、私が小学生低学年のころ、親の機嫌を取るために言った「獣医になりたい」という言葉を言質に取り、「獣医学部か、それに値する学部に行くこと」を私の進学条件にしていた。

獣医学部に進むには、学年でも高位の成績でないと難しい。
入学当時ならまだしも、今の私の学力ではほぼ不可能だった。
第一、獣医学部、あるいはそれに値する学部に進みたいのならば、家庭内で子どもが勉強に集中できるようなバックアップが必要だ。
高学歴の友人の家は、たいてい親が子どもの受験に協力的だった。
私の両親は最終学歴が高卒で、大学受験の経験がなかったので、私の受験に対する協力など皆無に等しかった。
塾に入れさえすればどうにかなる――、そう思っていた。
それこそ、両親は、「勉強ができる子」なら、親の助けなど要らないと信じ切っていたらしい。
それどころか、「苦労させたら苦労させるだけ子どもは育つ」と思っていた節さえある。

私はいつも思うが、苦労にも、「していい苦労」と「しなくていい苦労」がある。
明らかに両親の存在は私にとって「しなくていい苦労」だった。

父親の暴言、母親の嫌味。
この二つを浴びせられながらも、私は歯を食いしばって耐えた。

毎日とにかく「生き延びる」という感覚。

家では私は感情を殺し、気配を消して生きた。
学校では私は明るく騒がしい生徒という評判で、「きりんがどこにおるかすぐ分かるわ、まったく騒がしい。将来はお笑い芸人にでもなるんか?」と先生からも笑われるほどだったが、当時の私は学校で友人達と思い切りはしゃがないと、心のバランスが取れなかったのだ。


生き延びた先に何があるって言うんだろう

高校三年生の秋のことだ。
差し迫ってきた大学受験に向けて、寸暇を惜しんで勉強に励む友人を見つつ、私は大学案内を眺めていた。
進学校に来た以上は、進学せねば、とは思うが、私はとっくの昔に将来を諦めていた。
毎日私は「死にたい」と思っていた。
でも同時に、生来の負けん気の強さから、「あんなやつらの為に死にたくない」とも思っていた。

そんな私の目にとまった大学があった。
偏差値は当時55~62ぐらいの設定だったと思う。
一方、私の偏差値は50前後、すでにセンター足切りのある国立を狙える成績ではなかった。

四年制大学……
今から猛勉強すれば、手が届きそう……
この地域ではそこそこ有名な大学みたい……
私学なのに学費は安め……
一人暮らしできる……

しかも仲良しの子もこの地域の大学に進学するという。
だったら大学生になっても会える!(当時の私はかなり精神的に不安定で、親から離れたいが、友人からは離れたくないと思っていた)

ここなら、親も文句を言うまい。

……私は、生きたい。
親から逃げて生き延びたい。

はじめて、希望のようなものが私の心に浮かんだのである。
その決意が、いままで完全に生きる死体のようだった私に活を入れた。

脱獄計画・プランニング

すぐさま私は計画を立てた。
小中と通った塾で学んだことがここで役に立った。
その日のうちに志望校の赤本を買い、受験対策を一人で練り始めた。

まず一番に私が決めたのは、文転だった。
理系で私学は学部にもよるが、文系と比べて高額になる。
父が無計画に金を使う我が家では払えまい。
また、受験科目も理系では厳しかった。
だから、私は文系で一番つぶしが効き、就職に有利な学部に進むことを決めた。
その学部とは「法学部」だった。

「法律……小説で読んだとき、法律関係は面白かったな……」

興味を抱けない、という学部ではなかった。
それなりに面白そうだと感じ、また、法学部ならどうにか親を説得できそうだという見立てもあった。
文系でもっとも偏差値の高い法学部なら、両親も納得するだろうと思ったのである。

こうして私は法学部進学に狙いを定めた。

すると、自然と受験科目は絞られる。
科目は選択式で三科目だった。

国語、英語、しかしもう一科目をどうするか……。

……私は理系だったので、数学を選択すればいいだけなのだが、数学の成績は散々だった。
そこで私は独学で暗記科目を勉強することに決めた。
無謀だとは思った。
なにせその科目は、せいぜい中学3年生レベルでとまっている。
それを四か月かそこらで、受験合格ラインまで持っていくのだ。
しかも浪人は許されない。
親は「おまえなんて浪人するだけ無駄」と言い切っており、現役合格、かつ私が希望して受験できる大学はひとつのみ、という枷まではめられていた。

でもなぜか、私には「できる」という自信があった。

それというのも、当時の私の成績は悲惨だったが、不思議なことに、勉強をしなくても国語に関してはかなり点数が良かった。
他の科目が赤点以下なのに、なぜかこの科目だけは安定して80点以上を取れていた。
読書が好きだったのと、小中の塾で国語の基本が鍛えられたおかげだろう。
英語に関しては当時通っていた塾のおかげで一気に偏差値が伸びた。定期試験ではいつも30点だったのが、いきなり70点まで上がったのである。効果は上々だった。


脱獄計画・実行

私は秋から受験がおわるまでの間、ひたすらその科目を勉強した。
小中の塾で教え込まれた勉強方法を思い出して、勉強し続けた。
山川出版社の参考書にはどれほどお世話になったか分からない。
参考書がボロボロになり、分解してしまうまでに勉強した。
独学の受験勉強は大変だったが、手応えはあった。
それに面白かったのも事実だ。
久しぶりに「やりがい」が私に戻ってきた瞬間だった。

教師達も協力的で、「とにかく授業中寝ずに起きてくれているならば卒業に必要な点はやる。大学に行けるようにする。だからその科目をやってなさい」と言ってくれた。
本当にありがたいことだった。
思うに、私の授業態度(すぐ寝てしまう)は教師の間でも問題視されていたのだろう。
当たり前だ。
私もこの点に関しては申し訳ないと思っている。
それに私は高校在学中一度家出しているので(数日で警察により連れ戻されたが)、教師も察していたものがあったのかもしれない。

「生きたい」と私はこの時初めて強く思い、行動に移していた。

学校で毎日残ってギリギリまで勉強した。
休日も冬休みも全て学校に来て勉強した。
学校には冷暖房がなかったから、冬はフリースを頭から被って勉強した。
家では自室に暖房を入れると「贅沢だ」と文句を言われる。
だから寒いのなんて平気だった。
文句を言われるより何倍もマシだった。
それに、勉強をしていると両親からの邪魔も多かった。
でも学校なら同じく受験勉強に励む友人がいて、励まし合える。
その友人は旧帝大学狙いの、全国模試の順位表にも何度も名前が載った秀才である。
性格もこざっぱりとしていて裏表がなく、はっきりと言う子なので、コソコソと裏で言われるが大嫌いな私にとっては付き合いやすく、気が合った。
その子の集中力はすさまじいもので、友達同士の勉強となるとおしゃべりに花が咲きそうだが、彼女とは昼食時に喋る程度で、あとは二人そろって脇目も振らず勉強し続けていた。


脱獄計画・完遂

努力の甲斐あって――、私は第一希望の大学に一発で現役合格できた。
教師たちは驚いていたし、クラスメイトも驚いていた。
そのくらい当時の私の授業態度は酷かったのだ。

とにかく合格してしまえばこっちのものだと思っていたが、母はともかく、父が難色を示していた。
どうやら私の合格した大学の価値が、父にはさっぱり分からなかったらしい。

しかし、ついに神が私の事を気にかけてくれたらしい。
なんと、父の勤め先に「私が合格した大学出身の同僚」がいたのである。
この同僚がいてくれたおかげで、父は、私が合格した大学を「それほど悪い大学でない」と判断し、私の学費を出すことをしぶしぶ了承した。

――家族という檻の扉の鍵が、ようやっと開いた瞬間だった。

こうしてついに私は進学――、そして、家族という檻を満身創痍ながらも抜け出せたのだ。

長い、長い……暗いトンネルの中を歩き続けたような18年に、やっと光が見えた瞬間だった。

春からは一緒に大学生だね

大学合格した私に、更に嬉しいことがあった。
それは、現役合格間違いなし、と太鼓判を押されていた旧帝大学狙いの友人も見事一発で合格し(センターは満点だった)、ふたりで手を取り合って大喜びした。
あの寒い学校で頑張って良かったなあ! とお互い言い合ったものだ。

本当に、本当に嬉しかった。

この友人とは未だに仲が良いが、勉強熱心な彼女がいなかったら私は大学合格まで走り切れなかっただろう。
彼女もまた、私の恩人だと心から思う。
いや……、小中からの友達、そして高校でできた友達がいたからこそ、私は18歳まで命が繋げたのだと思う。
私が生きているのは友人たちのおかげだ。
ありがとう。

余談

なお、両親からはしつこく地元の大学(偏差値40程度。無理矢理受験させられたので、ほぼ白紙で出した)に行けと言われたことを付け加えておこう。
ここなら親がすぐに来られるからだろうが、私は完全に無視した。

また、のちのち、大学の学費を出したのは「愛情だ」などと両親から言われたが――、私は当時言われたことが、真実だと思っている。
両親からこの件で褒められた覚えはひとつもない。
ひたすら金食い虫だと罵られてばかりだった。
ひとりだけ楽しやがって、楽しみやがって、などと言われたことさえある。

大学合格を褒めてくれたり、喜んでくれたのは、周りの大人達、教師たち、友達たちだった。
もし、浪人がゆるされるのなら、あとひとつ、上手くいけばふたつは志望ランクを確実に上げられただろうと教師達は苦笑いしていた。

「もっと早く本気を出せ、おまえは。そしたらもっと良い大学にいけたのになあ……」

私は笑って誤魔化したが、「死にたい」と長年願っていた私が本気で「生きたい」と願ったのは、あのときがはじめてだったのだ。
だから、この大学でいいのだ。


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