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ジェームス・カーティス・ヘボンhakase⛪️🏥📚🏫



1858年7月29日大老井伊直弼により、日本とアメリカ合衆国の間で日米修好通商条約が結ばれます。

第8条には、『アメリカ人は宗教の自由を認められ、居留地内に教会を作っても良い。』とあり、キリスト教宣教師の来日が可能となります。

…実はこの時、アメリカ側は、ペリー提督が乗船した黒船ミシシッピ号を使用し、長崎に入港した後、条約交渉が行われている下田にも姿を表し日本側に圧力をかけていました。

しかし、この行動が悲劇を生みます。長崎から始まったコレラは、旧東海道筋を経て江戸にまで至り、同年8月大流行して3万人の死者を出し、火葬しきれない棺で溢れました。

ヘボン博士(1815-1911)は、1859年4月24日教会の宣教医として、妻クララと共にニューヨークを出発します。

横浜村は、もともと砂州の上に形成された半農半漁の寒村でしたが、水深を増す浚渫・居留地・波止場・神奈川運上所・神奈川奉行所などが開港に向けて整備されます。

また、旧東海道と横浜村を結ぶ「横浜道」を現在の西区浅間町から中区吉田橋付近に造成し、神奈川宿から横浜への渡船も開設して、同年7月1日横浜は開港します。

しかし、横浜に開港場を建設した幕府に対して諸外国の外交官達は、条約では神奈川が開港場であると主張し、神奈川宿の寺院に領事館を置きます。

同年10月17日ヘボン夫妻も横浜に到着し、旧東海道の神奈川宿にある成仏寺本堂に住まいを定めます。

成仏寺は、同年11月1日ブラウン宣教師も来日し庫裡を住まいに定めて宣教師宿舎となり、翌年頃クララが5人の少年を集めて私塾を開きます。

外国奉行は、開港場を横浜村とすることに反対する外国人を引き付ける目的もあり、関内の太田屋新田に遊廓建設を計画し、請け負った品川宿の岩槻屋佐吉らが同年11月10日港崎遊廓を開業します。

1860年3月ヘボンやホールは、神奈川宿近くの権現山の山頂から立ったまま大名行列を見物した為、藩主の駕籠が止まり不穏な空気が流れましたが、行列は再出発して事なきを得ます。

翌年4月ヘボンは、川向こうの宗興寺に施療所を設けて医療活動を開始します。

そしてついに、恐れていた事件が起きます。1862年9月14日東海道沿いの生麦村で薩摩藩島津久光の行列に乱入した騎馬のイギリス人1名が殺害され、2名は深手を負わされます。

負傷した2人は、アメリカ領事館として使用していた本學寺に駆け込み助けを求め、ヘボン博士が治療しますが、この事件により翌年に薩英戦争が勃発します。

幕府は、海外との交渉には英語の習得が必要な事を痛感します。ヘボン博士らは、同年アメリカ領事館を通じて神奈川奉行所より依頼され、運上所官舎前に設置され英学所にて、宣教師等により語学教育が行われます。

さらに同年末、横浜居留地に宣教師館が完成したため、住居を移転します。

翌年の1863年秋、新しい生徒を募集して私塾ヘボン塾を再開し、後に高い英語力によりイギリスなどで戦時外債の公募を行い、日露戦争の戦費を調達した高橋是清(1854-1936)などが学びました。

1866年豚屋火事が発生し、港崎遊廓・英学所などは焼失してしまいます。

ヘボンにより編纂された『和英語林集成』は、1867年日本最初の和英辞典として初版、72年和英・英和辞典として再版されます。

1882年山手245番地に引越します。

さらに、1886年和英語林集成の第3版において、ローマ字表・ローマ字表記法(ヘボン式ローマ字)を完成させます。

1887年ヘボン塾をはじめとする学校を統合し私財を投じて東京都港区白金に明治学院を設立し、89年明治学院初代総理に就任します。



…92年妻クララの病気回復のため離日します。幕末の横浜で医療活動・語学教育を行い、ヘボン式ローマ字を広め、学校を創設するなど日本の近代化に大きく貢献されました。




今回の記事は以上です。最後まで読んで頂きありがとうございました😊

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