Vtuberが今の形に落ち着くのは云わば必然

今のVtuberは〇〇だからダメだって言う意見が良く見かけるような気がします。私はVtuberって構造上今の感じに落ち着くのはある意味必然なのかなと思っていますので、懐古厨みたいな事言っている暇があるなら別の娯楽に注力すべきではないかと思います。

初期のVtuberは協力の産物


キズナアイさんが初めてバーチャルYoutuberという言葉を使って世間に認知されてから早4年ぐらいの年月が経っています。その間にキャラクターがYoutuberをやってみたから人間がバーチャルの皮を被った姿に用語の方が拡張されてしまったのに、Vtuberって言葉が便利だからってそこらへんの分離せずに使い続けているのでVtuberって無駄に主語の大きい用語になってしまって非常に使いにくい用語になってしまっています。

しかし、他に使える言葉もないのでVtuberでいきますが、初期のVtuberっていうのは云わばみんなでやっていた壮大なごっこ遊びだったのです。誰もが別に本当にAIが話しているなんて思ってないし、宇宙人がいるなんて信じてないけど、信じているふりをしてそこに仮想の人格を作り上げるという遊びを演者も運営もファンも一緒になってやっていました。本当にどこが欠けてもダメな繊細な遊びだったからこそ優しい世界という言葉で世界観を一生懸命守っていたのです。

感動は壊れやすいからこそ守らないといけない。簡単に壊れてしまう物だって分かっていたから。これこそが初期の優しい世界の正体です。気が付いたら別に意味に代わっていましたが、始まりはそこでした。今でもその認識を頑張って守っている子達もいますが、圧倒的少数です。と、いうか現実があるので難しいと言った方が正しいでしょう。

Vtuberはハイコンテクスト


初期のVtuberは等しく維持するためには、とにかく関わる人間全ての意識がある程度一致しないと維持する事が難しいという問題点があります。そのためにはある程度詳細なバックグラウンドが必要になりますし、新しくファンになった人間にはお決まりやお約束をきちんと理解してもらう必要があります。

つまり全体的に敷居が高い文化圏だったと言えます。だからこそみんな未来を夢見てしまったし、なまじうまく行ってしまったが故に成功したと錯覚してしまいました。

でも、うまく行ったように見えただけで成功してはいなかったのです。正確には個人の趣味で収入を度外視するコミュニティレベルなら維持できるぐらいでしたが、ビジネスという観点で見ると大失敗だったと言えます。敷居が高い文化圏と言うのは人を選ぶ上にお金が回りませんからね。だからこそ初期の運営の皆さんがブームから文化にするって散々言っていたのです。イニシャル、ランニングを回収した上でスケールする為にはどうしても必須だったからです。

でも、大多数の人には一緒になって世界観を構築するっていうのはあまりに難しすぎました。

ハイコンテクストからローコンテクストへ


初期Vtuberの理想であるみんなで仮想の人格を見出して遊ぶというやり方は頓挫しました。悲しい事にそこまでの理解を大多数の人が持っていなかったし、その理想を支えられるほど大きな市場に成長する事も出来ませんでした。一部はうまく後述の内容を足す事で成功していますが、大多数がその理想を適える事が出来なかったと言えます。

それに対して仮想の人格を作成するっていうハイコンテクストをある程度放棄する事で敷居を下げるという方法が注目を浴び始めます。バーチャルの皮が重要でそこに仮想の人格なんて必要ないという割り切った考え方です。バックグラウンドもそこまで必要ないし、世界観の維持もコストもかからない。こちらが今のVtuber市場において主流派で生主の焼き直しってバカにされますが、その割り切りによって市場を広げる事が出来ました。

つまり初期Vtuberが衰退して、配信中心のVtuberが大成功している事に因果関係は実はありません。配信型が出てこなければそのままVtuberって言葉そのものがなくなりますし、おそらくキズナアイさんが存在しない世界線においてもVtuberって名前が存在しないだけで似たような活動の人達が存在するでしょう。

必然的に初期のVtuber達も事業の維持拡大の為にローコンテクストへ落ちていく事になります。みんな自分の世界観を何とか崩さないように努力しながらも大衆受けを狙って活動内容を変えていきます。でも世界観維持という制約が大きくて動きにくくなる。結果、最初から制約がないタイプの方が自由にのびのび活動できるように見えるし、大衆への受けもいいという事になります。

歪んだ優しい世界


Vtuberというのは初期の理想では演者、運営、ファンの三者に合意によって存在していました。パワーバランスで言うとそれぞれが等しい必要があり、だからこそ優しい世界という決まりでうまく回していたのです。

けど、現実問題としてそんな事が可能でしょうか?

演者、運営、ファンそれぞれがお互いがお互いをリスペクトしあってVtuberという仮想の人格を作り上げる。あり得ませんよね。自分は自分であり、他者は他者である。そもそもお金を払う側と受け取る側。そんなことが可能なら人類補間計画なんて発想が出てくるはずがない。と、いう事でそのパワーバランスは崩れるというか最初から存在しなかった。にも関わらずなぜか優しい世界という言葉だけが残りました。本来なら優しい世界って言葉そのものも消す必要があったにも関わらず。

その結果、優しい世界という名の元に言論統制によるディストピアの形成が行われ、優しい世界を維持する為に自警団が暴れるという悲惨な結果になりました。輪を乱すものはアンチのレッテルを張られ迫害され、迫害されたアンチは某所アンチの養殖所にて更に過激思考を強化され、自警団は自警団の集まりにて過激思考を強化されていきました。

アンチにしろ、ファンにしろ妙に同調圧力が強いのはそのためです。中庸を許さず1、0の二値でしか判断できない層が他に比べて多いのはそのためです。

演者の地位の絶対化


歪んだ優しい世界の構築と共にある事象が進行します。演者を頂点とするパワーバランスの再形成です。本来ならモデルやシステム構成の運営、魂を演じる演者、それを認識するファンは同じパワーバランスであってしかるべきでしたが、歪んだ優しい世界の結果演者こそが全て正しい。演者のいう事が絶対。運営は演者のいう事を聞いている犬であるべき。演者のやりたい事を阻害するファンはアンチとして追い出すべきという鉄の戒律が構築されて行くようになります。その結果演者と運営がもめるとほぼ確実に演者側が優勢になります。

演者が辞めると強くてニューゲーム状態にも関わらず、運営側はダメージ回復に力を取られてしまいます。もちろん強くてニューゲームなだけでそれから先は本人の努力次第という事は断っておきます。結果を出してる人間は強くてニューゲーム状態で努力したってだけでチート貰った訳でもないので。

今のVtuberって言い方は悪いですけど、売れないのは運営のせい、売れたら演者のおかげとなっている節があります。劣化芸能界以外の何物でもないのですが、傍から見ていると運営側にリスクだけがあってメリットがまるで見えません。この状況では運営が増える事はないでしょう。

まとめ


初期のVtuberとは、先にも述べたようにみんなで仮想の人格を見出すという遊びでした。でも、遊びは所詮遊び。仕事にはできません。Vtuberの活動には資金が必要でそれを稼ぐ必要があります。そうなると世界観を落として窓口を広げる必要があり、演者のコントロールする領域が増えていきます。結局Vtuberっていうのは仮想の人格ではなく演者のコントロールできる人格に落ち着きます。完全に同一人物と見るか、似ている別人と見るかは人によるのですが、演者が一番上という図式は変わりません。

昔のVtuberは良かったと言いますが、市場から淘汰されたにすぎません。生配信が流行っているのも結局昔の理想のVtuberが市場から求められておらず生配信が求められているというだけです。

なぜ生配信が流行るのか。それは偉い学者の先生が研究するでしょうが、おそらく人は孤独耐性が高くなく、かといって現実の人間が横にいるのはそれはそれで嫌だって話なのではないかと思っています。

そして好き嫌いは当然あってしかるべきです。よく飽きたコンテンツに砂かけて行くなんて醜い。飽きたなら黙って出ていく事こそ正しいと言われますが、それこそ正に優しい世界と言う名の言論統制そのものです。飽きたなら飽きた理由を書いてもいいし、気に食わないなら気に食わない理由を発言してしかるべきです。

でも、気に食わない理由を延々と述べるのは良くありません。気に食わない事を言ってきっぱり離れないと精神が汚染されてしまいます。

ま、長々と飽きた理由を書けるなら全然飽きてないってだけなんですけどね。飽きたならそもそもそんな長文書く余力ありませんし。自戒も込めて。


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