工場実習の思い出
私は輸送機器関係のメーカに勤めている。こういったメーカは新入社員教育の一環で、短期間実際に生産ラインに入って現場の仕事を体験し、苦労を理解する研修がある。私の会社にもあった。事前に普通は3か月と聞いていたが、私の年だけ一時中断を挟んで8か月それが続いた。
人によって時間の長短の捉え方が違うので、8か月という期間に対する意見は様々だろう。しかし大学を卒業し、いざこれから己のキャリアを始めようと考えていた若者の主観では、永遠に近しい長さがあった。
私の通っていた大学では、「山パンの工場バイト」という都市伝説があった。某製パンメーカの工場でバイトをするだけなのだが、一日中コンベアを流れるケーキのイチゴが倒れていないか見守る作業や、バナナの皮を剥きつづける作業が精神を破壊すると専らの噂だった。
一日終われば身体にはクリームと砂糖の甘い匂いが染みつき、二度と菓子パンを正視できなくなると言われていた。今思えばひどい話だが、当時の私は真面目にそれを信じていた。業種は違えど同じ工場勤務。自分に8か月も勤まるか自信がなかった。
サイクルタイム
工場実習初日。私は組み付けラインに投入された。組み付けとは文字通り、部品と部品を組み付けて完成品を作る工程である。大型の設備を使ったプレスや溶接といった作業に比べて、危険や身体的負担が少ない軽作業に当たる。
さてここで、工場において重要となるタクトタイムとサイクルタイムというものについて触れておこう。
輸送機器業界では一般的に、得意先からのオーダーに応じて日々の生産目標が決まっている。それ以上作っても売り先がないので無駄な在庫になるし、それ以下では欠品となるので、稼働時間一杯でちょうど目標数を作り切ることがベストとされる。
そこで生み出された概念がタクトタイムである。タクトタイムは日々の生産目標を稼働時間で割り、1つのものを何分ないし何秒で生産しなければならないかを求めたものである。例えばタクトタイムが1分であれば、1分に1個完成品が生産されればベストとされる。当然、タクトタイム以内に生産できなければ納入できなくなるので大問題である。
このタクトタイムと対になる概念がサイクルタイムである。サイクルタイムとは、一つの作業が開始から終了までにかかる時間を表す。例えば1人で流す組み付けラインなら、箱から部品を取り出し、作業台でねじを締めたりして完成状態にして、箱に詰めるまでの時間を指す。これが前述のタクトタイム以内に収まるように生産ラインは注意しなければならない。
私の入ったラインは私一人しかいないラインだった。これはありがたい。もし何人も横に並んだ状態で、コンベア上を流れる製品に加工を行うラインだと、熟練者に挟まれて同じ速度で作業をしなければならない。少しでもミスをするとコンベアが停まり、復旧に時間がかかるのでプレッシャーは相当なものがあった。
しかし、私のラインには別の悩みがあった。サイクルタイムが3分もあるのである。それはつまり、3分間の動きを完全にマスターしなければならないということである。作業内容を習得するのは、ちょっとしたダンスを覚えるくらいのボリュームがあった。私はつらつらと説明される作業内容を必死にメモに取った。コンベアを流れるショートケーキを見守る「受け」の作業とは、全く違う現場が私を待っていたのだった。
暗記には少し自信があったが、初日は大層苦戦した。なぜか頭がぼんやりして思うように身体も動かない。おかしい、と思ったが理由はすぐに分かった。その日は人生初の夜勤だった。普段寝るような時間に突然やったことのない動きを覚えるのだから、全く頭に入ってこなくて当然である。私は冴えない頭を回転させ、深夜一時にある昼休憩という名の長期休憩時にイカフライを貪る猛者を尻目に素麵をすすりながらメモを何度も見返した。深夜一時にイカフライの需要があると考える食堂も食堂だが、それを難なく食らう側も側である。
結局、初日はサイクルタイムが12分かかり、1時間に5個しか生産されないという完全受注生産ラインのような状態だった。ボーイングやフェラーリの生産ラインならこれで許されるかもしれないが、残念ながら私の会社は大量生産を旨としていた。
惨敗した初日の終わりに、別のラインに投入された同期と話す機会があった。彼の入ったラインはタクトタイムが7秒しかないので、動きの速さに化繊の服が付いていけず、摩擦で少し溶けたと言っていた。精神が破壊される暇もなく続く生産の波に、私は対応していけるか不安だった。帰り道、身体からはグリスと防錆油の匂いがした。
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