観察するための手段〜「書く」と「話す」の有効性について〜

今日は地域内同期の方と一緒にご飯に行った。

普段はその方(Aさんとしておこう)からサシで「ご飯に行こうよ」なんて誘われることもないので、何か話したいことがあるのかな〜と思いながら中華料理屋さんに赴いたのだが、聞くところによると、最近ショックな出来事があったようで、その話を聞いてほしいとのこと。

Aさんの特質として「内省」は上位資質として現れてきそうなくらい普段から自分のことを顧みているのだが、その手段はもっぱら「書く」ことだそうで、どんな事実があって、そこに対して自分の心がどのように動いたのかを文字ベースで構造化することをなんと中学生ごろから行ってきたらしい。

そんな内省力高めなAさんの話をじっくりと”受け止め”てみると、Aさんが話しながら「あ、もしかしたらこれってこういうことなのかも」という気づきを「勝手に」発見していく。この時自分は特に何もしているわけではなく、ただ中華料理を頬張りながらニコニコしているだけ。それなのに、Aさんは話しながら、事実とそこに対する自分の気持ちの新たな結びつきを発見していく。

その時に、自分を観察する最初の方法は、まずは話してみて、「あ、そういうことか」という発見(観察)を積み上げていくところから始めるといいのかもしれず、ある程度の知見が貯まったら文章を使って構造化していくのが良いサイクルなのかもしれないとふと感じました。
つまり、自分の場合は、日々の気づきを音声で。特筆したい気づきを文字で という棲み分けを作っていきたいなと思った夜でした。


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