他者との対話における感情とロジックの関係性
先日、知り合いを招いたパーティを企画した。
というのも、年末に一緒にご飯を食べた漁師の友人と「一緒に〇〇さんとご飯食べられたら嬉しいね」という話になり、それであればシェアハウスでパーティを企画しようか という話になった。
ちなみにだが自分のシェアハウスは自分も含めて7名が住んでおり、プラス数名が職場として利用をしている。やはりそれだけ人数がいるとみんなで晩御飯を作ることになるのだけれど、食べる人数が直前にならないと確定しない現状がある。自分が料理を当番する際は、ご飯が足りなくて食べることができなかったり、量を抑えめにしなければならなかったりする人を出さないためにいつも多めに作るようにしている。
それは自分の「みんなに楽しんでもらいたい、喜んでもらいたい」という信念であり、真善美によるものだ。
今回のパーティーも正直人数が読めなかった。
以前までは人数を把握するために食べる人を募って数量をカウントしていたのだけれど、そこに対してのリアクションがないので、最近はあてにせず、想定のマックス値で設定していた。今回は希望があった「餃子」をメインに据えており、マックス値で10人だとしたら3キロもあったら足りるだろうと考えていた。しかし、結果を見ると13人もきてくださり、餃子は足りず、自分が持っていた小籠包や肉まんを出した。そんなことは日常茶飯事だ。
ただ、今回、飲み物の仕入れで摩擦が生まれた。
飲み物に関して、足りなかった際にコンビニで買う方が高くついたり、また会計で参加者に迷惑をかけたりするので、「余るくらいで仕入れを行おう」 ということで、大きなペットボトルサイズのジュース2本(コーラとジンジャーエール)とお茶3本を仕入れていた。
ただ、ここで「飲み物買いすぎだよ」という指摘をもらい、自分は怒り、哀しみ、何も言うことができなくなってしまった。
実は前回からも飲み物に関する指摘として「オレンジジュースとかりんごジュースなんて誰も飲まないよ」という言葉をもらっていたのだが、言葉を発した方からしたら「前にも言ったのになんでいうこと聞かないんだよ」という気持ちがあったのか、いつもよりイラつきの感じられる、棘を感じさせる言い方だった。(これはあくまで自分の捉え方であり、主観であることは明記しておく)
正直、自分の考えとしては、先に述べた通り、そもそも「余る前提で仕入れをしている」ということと、前回の指摘をもらった「ジュース多すぎ」という点に関して、前回はジュース4本とお茶2本という仕入れだったのでそれを変更して今回のような仕入れをしたこともあったので、言われた時、無性に腹が立った。
改めてこれは自分の主観かもしれないが、「なんでいうこと聞かないんだよ」と言われた気がして、そこに対しては、「自分は自分なりに相手の言葉を咀嚼して、改善策をとった上で行動をした」のだが、それを全否定された気がして、怒りを感じたと同時に、非常に哀しい気持ちになってしまった。
ちなみに、このようなパーティーなどは基本的に自分がやりたいからやる というのがベースではあるが、それと同じくらい(それ以上に)みんなに楽しんでもらいたい という気持ちで企画をしている。だからそれは「あなたがやりたいからやっているんだよね。私たちはそれに付き合ってあげているんだよ」という指摘が来ても否定はしない。
だがしかし、そうだとしても仕入れや場の準備をし、片付けなどを行なっているのは自分であり、そこに対してのリスペクトはあるべきだと思う。
もしかしたら自分に対してのリスペクトはあるのかもしれない。だが、それは思っていたとしても言わなければわからない。日本人は察しを得意とし、美徳とする特質を持っているのかもしれないが、それは全員に対して当てはまるわけではない。少なくとも自分には当てはまらない。
指摘を受けて心が波立ってしまった自分は、その方の指摘は頭には全く入ってこなかったし、何よりも自分の尊厳を傷つけられた気がして、その場にとどまることがこの上なく嫌になってしまい、一旦心を落ち着けるために自室へ戻った。
そして自分の心の平穏さを取り戻し、先ほどの件を振り返ってみたところ、なんと自分は感情的な対応をしてしまったのだろうか、と大いに恥じた。
冷静になって考えてみると、相手の言い分に対してロジックは通っているし、ジュース多すぎ という指摘に対して、自分が考えていることを伝えることはできた。そしてそれを受けて相手と仕入れに関するすり合わせをしていくこともできた。
ただ、自分は相手の指摘に対して「自分の真善美」を「頭ごなし」に否定されたと感じ、相手のロジックの理解や歩み寄りなんて一切考えられない、戦闘状態になってしまった。まして、そのロジックが正論であればあるほど、自分への否定がさらに大きくなる気がして、心がより波立ってしまう感覚があった。
いま思うに、相手の理想のコミュニケーション方法が「思ったことをそのままぶつけあう」であり、相手が自分の尊厳や真善美を否定しようとは少しも思っていない というのはわかる。
それでも、感情的になるとロジックなんぞ一切無意味になり、むしろ正論であればあるほど相手を傷つけてしまう可能性が大いにある。
この仮説が確からしいとした場合、「感情」というものを軽視してはいけないのだろう。
どれだけロジックが通っていようが、相手が感情的になってしまった瞬間、相手との対話の道が閉ざされ、すり合わせを行うことができなくなってしまう。別に相手と戦い、傷つけることがお互いの目的ではない。お互いが居心地良くいることができるようにするための手段を共に考え、実現していくことが目的であるはずだ。
であれば、どうしたら相手の感情を尊重しながら、自分の願いを伝えることができるのだろうか。そして、自分の心をいかに波立てないようにすることができるだろうか。
答えはまだわからないが、まずは事実を正しく捉えること(つまり観察)が、相手の感情のみならず、自分の感情を知り、リスペクトをすることやコントロールをするための大きな一歩になる気がしてならない。
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