「自己肯定感」から感じる世代感の認識の違い
自己肯定感。
この5年で事ある毎にこの言葉を聞くようになった。
自分の友人がちょっとした取材を受けていて、その中でも「自己肯定感がとても低くて、失敗や怒られるのを必要以上に恐れてしまうところがあった」と答えていて、やっぱり自己肯定感は生きていくうえでの関心事項なんだなと感じている。
そんななか、この記事をみた社長がこの動画をみてみたら?というメッセージを友人に送っていたとのこと。
内容をざっとかいつまむと
「自己肯定感」という言葉からはすべてをまるっと認めてくれる、そのひとの特質を受け入れてくれる”やさしい”スタンスではあるかもしれない
しかし、すべてを認めてくれるがゆえに、現状維持になってしまうんじゃないか
だとしたら誰かから怒られてでも理想に向かって高みに登っていくほうが人間としての厚みや面白さにつながるんじゃないか
という内容だった。(かなり自分の解釈が入っているが)
確かにイチローや社長たちの言いたいことは非常にわかる。
ただ、イチローや社長たちが考えているものと自分たち世代が感じているものは認識が割と大きくずれているんじゃないか という違和感もある。
その違和感がどのようなものなのだろうか、、、と考えると、イチローや社長は自己肯定感という言葉を【自分の至らない部分に手をくわえない、現状維持の理由】として使っていて、自分たち世代は【自分たちが生きていくうえでのセーフティーネット】として使っているのではないか?と感じた。
社長やイチロー世代が受けてきた教育は1980年~90年世代だと思うが、この世代は【叱る】ことにより、何くそ負けるものか というファイティングスピリッツを駆り立てながら、上位資質を伸ばしながらも下位資質も強化するというストロングな教育だと解釈している。
いっぽう自分たち世代が受けてきた教育は2000年~10年世代だと思うが、この世代は【褒める】ことにより、自分の存在価値を担保してもらい、安心を感じながら上位資質を伸ばすことに特化した教育だと解釈している。
もしこの解釈が正しかったとすると、育ってきた文脈が全く違うことにより【自己肯定感】という定義・意味合いがズレて違和感があるのかもしれない。
そしてこの言葉の意味を同世代に聞いたところ
何かを行う上で自分を信じることができている状態
安心を感じることができている状態
というふうに人によって解釈のニュアンスが変わっていた。
今まで自分は何気なくこの言葉を使っていたが、世代の違う人達や同世代との人たちとの解釈の違いによってもしかしたらちょっとしたすれ違いが起きている可能性がある。
自分が使う言葉にこだわりを持つとともに、相手がどのような意味でその言葉をつかっているのか、お互いに認識はズレていないか、どんな言葉だと認識のズレが起きやすいのか。
つまるところマクロで捉えるとだと【世代ごとの育った環境の傾向】だろうし、ミクロで捉えると【その人の育った環境や経験の具体】を意識することによって相手の価値観を知り、それをベースとした言葉の解釈を知る ということが重要になってくるのではないだろうか。
そのために、まずは【観察】ということが非常に重要だよな と改めて思うと、いま半年ほど行っている日々の振り返りがより味わい深く感じられる今日このごろである。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?