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やばいって、クレイステネス

約2500年前、民主政という政治体系がこの世に芽吹いた。
クレイステネス、かの政治家がアテナイ民主政を完成させたのだ。

名門貴族の血筋でありながら民衆と魂を分かち合った、クレイステネス。
なぜ彼は自らに権力が集中しないような仕組みを選んだのか。
なぜ彼は民主政を完成させることができたのか。

この記事では、それまでに存在したのどんな権力者とも違う、クレイステネスの「やばいって」な面に迫る。


1.時代背景

ギリシアの都市国家アテナイは他の地域と比べ、ずば抜けて広い領域とずば抜けて多い人口を抱える地域であった。
今でこそ、法律とインフラが整備された世の中で広い領土を統治できるが、当時はもってのほかで、スパルタのように異質な軍事統治くらいでないと地域をまとめることは難しかった。

民主政が誕生するまで(及び誕生してからも)、ギリシアの都市国家はほとんどが貴族政または僭主政による統治をしていた。(僭主とは、世の中の混乱に乗じて非合法手段で政権を握る有力者のこと)
いずれも、一族の存続や権力の維持を第一に考えるという点で、独裁政治と呼べるようなものであった。

クレイステネスの政治家人生も、そんな混沌の禍に始まる。


紀元前510年、暴君政治の僭主ヒッピアスは追放されたが、アテナイの権力は大きく二分され、混乱の時代は続いた。
アルクメオン家のクレイステネスと、かつての僭主ヒッピアスと近い一族のイサゴラスが鋭く衝突したのである。

イサゴラスは、クレイステネスを倒すため、軍事大国スパルタにすがりつき、軍事介入を要請する。
これにスパルタ王クレオメネスはにやにやした顔で頷いた。

・・・・・クレオメネス王はアテナイをスパルタの傀儡政権に作り変えることを目論んでいたのである。

スパルタからの圧迫を受け、やむなくクレイステネスは亡命した。

政敵は消え去った。
クレオメネス王は少数の軍勢を引き連れてアテナイ市内に到着。
そして、イサゴラスを支配者の地位につけた。
親スパルタ、恐怖の独裁政権がここに樹立するかのように見えた。

だが、ここで声を上げたのが、かつてヒッピアスの僭主政で辛酸をなめた民衆だった。

彼らは武装蜂起し、アクロポリスに逃げ込んだクレオメネス王とイサゴラスを2日間にわたり包囲、攻撃した。
死んでもいい。こんなクソみたいな社会なんて変えてやろう
政治への口出しが許されなかった時代に、民衆ら自身が初めて立ち上がったのである。

わずかな手勢しか持たなかったクレオメネス王は籠城を諦め、3日目にイサゴラスとともに逃げ出した。民衆は、空白になったアテナイの指導者の座に、亡命していたクレイステネスを置くことを決める。

帰ってきたクレイステネス。
民衆に歓迎され、もう二度と踏むことはないと思っていた祖国の地を一歩一歩嚙み締めた彼は、どんな気持ちだったのだろう。

2.クレイステネスの改革

指導者となったクレイステネスは「イソノミア(法の平等)」を改革スローガンに掲げる。出自や貧富に関係なく、全市民が平等に参政権にあずかることを理想とした。
日本がGHQの指示を受けてようやく示した日本国憲法第14条を、その約2500年前にアテナイのとある一人の政治家が世界に宣言していたのである。

改革① 10部族制

クレイステネスは既存の体制とは全く異なる仕組みが必要だと考えた。
そこでまず部族の再編成に思い立つ。

そこで生まれたのが10部族制という秀逸なアイデアだった。
10部族制は、既存の4部族制とは似て非なるものであった。
新しい部族制の組織は小さいものから、区・トリッテュス・部族の三層構造をとる。

・区(デモス):自然にできた集落。全土に139個。
・トリッテュス:全土を沿岸部・内陸部・市域に分け、それをさらに人口がほぼ均等になるように10に分けた組織。複数の区からなる。全土に30個。
・部族:トリュッテスを抽選で3つ選出したまとまり全土に10個。

橋場弦「古代ギリシアの民主制」より編纂  

部族の組み合わせは、市内の権力が分散されるよう、かなり意図的に組み合わされた。
10部族制により、貴族の権力を強めていた部族ごとの結びつきがぷっつりと寸断されたのだ。

「アテナイ人の国制」ではこの改革の目的が、「市民たちの混合」であったと述べられている。
支配者と従士者の関係が薄くなり、顔も名前も知らない人たちと手を取り合って生きていかなければならない。しかし、彼らは今、「アテナイ人である」というアイデンティティを共有している。「身近な統一感」を無くして生まれたのは「アテナイ人の統一感」だったのである。


改革② 陶片追放

古代ギリシアの民主制で最も有名なものが陶片追放(オストラキスモス)である。陶片追放とは、年に一度、陶器のかけらに一人の名前を書き、その投票数が一定の数を上回った人物を10年間国外追放するという制度である。
定説では、これは僭主の出現を防ぐ目的で作られた制度であり、有力者を国外へ追放することで、市内の政治権力が偏ることがないようにした制度、と言われている。

しかし、本当にそうなのだろうか。
「古代ギリシアの民主制」では次のように述べられている。

従来説に代わって最近有力な学説は、有力者同士の対立の解決を民衆にゆだね、どちらか一方を穏便に政界から退去させることで、政争が破壊的な内乱にエスカレートするのを未然に防ぐことが目的であったとする。そう考えれば、国家の統合を最優先し、貴族のあくなき党争に終止符を打とうとしたクレイステネスの意図にも符合する。


改革③ 軍制の改変

既存の4部族軍団は、国家の正規軍というよりは、貴族の私兵の寄せ集めに近かった。
クレイステネスはこれの代わりに国家の正規軍として、10の部族軍を置いた。また、各部族から1人ずつ将軍(ストラテゴイ)を任命した。

今までは貴族からの命令で働かされていた兵たちは、一変したアテナイで国家のために戦うようになる。軍隊のポテンシャルを引き出すことに成功したのだ。

傀儡政権樹立に失敗したスパルタ王クレオメネスは、その屈辱を晴らすため、まだ生まれて間もないアテナイに復讐することを決めた。スパルタのほかにもテバイ、カルキスなどが一気に襲い掛かった。
しかし、アテナイは勝利した。

今までは独裁者の下で、人を殺したり、人に殺されたりしていた。
しかし改革後、それが「家族のため」、あるいは「国家のため」に目的が変わり、士気が上がったのである。
上からの強制ではなく、自分自身で決定し実行することが、何にも代えがたく尊い価値であることを、アテナイ人はこの勝利を通じて嚙み締めたのである。

クレイステネスの子孫ペリクレスによる戦争犠牲者への葬送演説の様子


3.クレイステネスから学ぶ死に方


偉大な改革を次々に行った古代ギリシアの政治家、クレイステネス。
彼の最期はどんなものだったのか。

気になるところだが、それは分からない。
政治改革以降の彼の人生や、その最期について記述された文献が見つかっていないのだ。

紀元前の人物だとしても、普通なら、一線を退いた後の余生に関する文献が何かしら残っているはずだ。民主制を世界で初めて完成させるくらいの偉業を持つなら尚更である。
だというのに、クレイステネスは、余生の暮らしはおろか没年でさえ分からない。

クレイステネスに関する文献はあまりにも少なすぎる。まるで後世のアテナイ人が彼のことを忘れたかのように、改革後の歴史から彼の名はふっつりと消え去ってしまう。

民主制を「衆愚政治」だとして罵ってきた後世のエリートたちにかき消されたのかもしれない。
いや、もしかしたら、権力が自分個人に集中するのを防ぐために、自らの名声を意図的に消し去りイソノミアの体制だけ残したのかもしれない。
後者が真実だとしたら、カッコ良すぎる。
やばいって、クレイステネス。

今となっては、彼の功績でしか彼のことを評価できない。
だがその政治家としての生き様は、ペリクレスやエピアルテスといった後世のアテナイの改革者たちに確実に大きな影響を与えた。

改革者たちが繋いできた民主制のバトンは今、我々が握っている。
2500年間、この政治体系は幾度となく途切れてきたが、その意志が消えることはなかった。時を経て形こそ変われど、その本質は変わらない。
クレイステネスの偉大さが、今になってようやく見えてきた。


今だからこそ、古代ギリシアについて知ってほしい。
そして、現代社会を少し見直してみてほしい。

政治家たちは、本当に民主制の実現に貢献しているのだろうか?
本当の課題から目を背け、やりたいことばかりやった挙句、失敗したら保身に走っているのではないか?

毎日に文句を言う国民も、不満を漏らす前に何か行動しただろうか?
自分のことばかり考えて、国を愛し、他人を想うことができているか?

偉大なる先人たちのおかげで、我々は自由に発言し、行動ができる。
だというのに皆その権利を怖がり、使いたがらない。
自分から遠ざけたはずなのに、その権利を使う勇気のある者がいたら一致団結して叩き始める。
呼吸できている間は自分の愚かさに気づけず、死ぬ寸前にようやく後悔するんだろう?

ふざけんな。

クレイステネスのように、誰かのために尽くそう。
アテナイの人々のように、快哉を叫ぼう。
我々自身の正義を貫こう。
たった今、たった今から行動しよう。

この3800字を、あなたのこれからに生かしてほしい。
長々と失礼しました。








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