見出し画像

大学無償化(税金化)とかいう筋の悪い政策が流れてきて背負わされそうなので、内申書問題と中学受験業界を整理したいと思っている

 書いていいというので愚痴交じりに雑感を書くんですけど、大学無償化の話がまた出てきて幻滅しています。

 個人的には高等教育の無償化(税金化・税負担)は費用対効果が悪いというよりは高等教育の在り方に対してネガティブな結果しか出ないことが明確なので、やめちまえよ(検討すること自体が無駄)という立場です。

 ところが、いろいろ雲の上から雷鳴やら宇宙線やらが降り注いできて私も無事に発狂し、諸般の事情で前捌きをやることになりそうなので短文雑感でも書こうと思っております。みんな死ねばいいのに。

「大学全入時代」というけれど(私の考え方について)

 少子化が進んでいるので大学はもうこれ以上要らないし、なんか意味なさげなZEN大学とか宮田裕章が良く分からん学長やるとか中村いちや先生がデジタル土方要請のFラン大学作って就職先なさそうなのに起業率日本一とかいう謎大学やってたりして、これもう滅茶苦茶です。

 個人的に新設大学は全部潰れていいと思うし何を学ばせているのか理解できない名前の新設学部は認可するべきではないと思うし地方で若者人口が減る中で学生数足りなくて留学生かき集めてきて何とか生徒数保ってる地方クソ私立大学は一刻も早く滅亡していいと思うしお茶汲み事務職しか輩出しないのに一丁前に学費を取って花嫁修業させている短期大学は新井と護摩行でもやって根性を叩き直して来いと思います。

 他方で、リスキリングとか偉そうなこと言ってますが生涯教育はとても大事で、ガキの頃からお墓に入るまで人間だれしも考え、学び、生きて社会に富を生み出し豊かな社会にしていくためにどう生きるかを、おはようからおやすみまでストーカーのように見つめるライオンのような教育の体系は必要だと思っています。

 また、社会的に価値のある情報、知識を生み出すための研究の現場と、その辺のガキをかき集めてきてカネを分捕って人間として最低限社会に出て恥ずかしくないレベルにまで育成する教育の現場とが同じ建物の中で同居しているのは実に不合理です。やること全然違うやんけ。馬鹿なんじゃないの。

 結果として、無駄に生徒数かき集めてきて金を奪う教育の出口としての大学や大学院は、本当に高度教育として国民全員に施すべき教育なのかというのは再考するべきです。本当に必要なら義務教育にして国費丸抱えにするような政策にすればいいじゃないですか。それをやらないで、建前として「みんなカネ苦しいんだね。じゃあ大学教育は税金で負担してあげましょうね」とかばら撒き以外の何者でもないし、地方に生まれて苦労して大学で学びに来る向学心ある大学生は救いたいけど、しょうもない馬鹿に名前を掛けたら入学させてあげると広き門以前に壁自体が存在しねえよというクロマティ大学が存在していること自体が無駄です。

 この辺の話は以前Kaz Toyamaという無駄に横柄なおじさんが「G型大学」「L型大学」みたいな定義のし直しを突然提唱し、その辺にいる有象無象の大学人がこぞって「高等教育を馬鹿にしているのか」と百姓一揆をおこしたために何事も無かったかのように議論が打ち切られましたが、言ってることは正論でありあんなのが8年ぐらい前にご建議あったのに安倍晋三政権で誰もそれを責任もって政策担ぎをすることなく最終処分場にいくことになったのはKaz Toyamaが正論を言うムカつくおっさんだったからであることは目の前で葬り去られる現場を見ていた私が言うのですから間違いありません。私は何も悪くありませんので、文句を言いたい人はキヤノングローバル戦略研究所の玄関に向けて丸太担いでドーーンって突撃してくださいドーーーンって。

https://www.mof.go.jp/public_relations/finance/202108/202108n.pdf

で、その大学ってカネ払うほど価値のあるものなの

 結論から先に言うと、人口の動態や就業の状況、年収の推移なんかを見ていると「どうやら大学に行く価値のある個人は少なそうだ」という話になります。ただ、これは打席に若者を送り込んで「おまえ、ホームランを打って帰ってこい」と星野仙一監督が厳命するようなもので、そいつが大学に行って稼げる人材になったり世界的な研究をできる基地外にできたりするかと言われると誰にもわからないので、とにかく大学とかいう高等教育の環境だけは作っておいて、まずは18歳ぐらいの人間に赤紙出して学力順にそれらしく放り込んでおいて、鉄砲と一口サイズのお米だけ持たせて頑張らせるしか制度的には方法がありません。

 そして、どうも実質当該年齢全人口の45%ぐらいが大学卒という資格だけもらって社会に出てくるわけですけど、その4年間の貴重な若者時代の時間を使って学ばせて得しめた「大学卒」というキャリア、本当にその人の人生において価値を持っているのかというと、半分以上の大学生がどうやら「無駄だった」かもしれないわけです。

 この辺は割と長い議論になるんですが、現象だけ見れば大学に学費払い損かつ若い時間の無駄遣いな感じが凄くする一方、社会に出るためのトレーニング期間だろとしたときどう計量的に判断していくかは割と問題になります。

 志水宏吉 (2009) 「学歴社会のメリトクラシー」などいくつか先行研究もあるんですけれども、いわゆるメリトクラシー(能力主義:個人の能力や実績に基づき社会的な地位や報酬が与えられる仕組み)批判というのはあくまで概念的なものであって、計量的にはあんま関係ねえように思うんですよ。

 突き詰めれば、その辺にいる外資系コンサル会社で年間10億円とか売り上げているやつが、東京電力の下請け電設会社に入って昇給もないのに年収500万で頑張って働いていたり、地場零細人材派遣会社から市役所に派遣されモンスター市民や共産党員から日々どやされながら生活保護受ける窓口業務やって月420万もらったりしている人の20倍労働者として価値があるのかと言われたらまったくそんなことはないわけです。

 これは、現在完全雇用に近い我が国において、労働力不足を叫ばれている現状で事務職求人は4倍近い応募があるのに、建設や清掃、介護など職種で人が集まらない現状は、必ずしも人の能力と給与は比例していないぞということの証左でもあります。

 最近は「椅子理論」ってのが出てきて話題になっていますが、計量的にはちょっとまだハマるかどうかは分かりません。労働政策や教育経済学で興味のある人はお好みでどうぞ。

 ここに、我が国の教育の出口としての大学とかいう謎事態になるわけですけど、いま教育データ関係の分析が進んでくる中で、どうもいくら資質・能力を多面評価しても、結局は偏差値の高い著名大学、応募の多い大学に入って卒業せしめた学生のほうがいい企業に入るし、長く勤めるし、利益も企業にもたらすし、卒後ネットワークも充実しているしで、日本大学卒業生がオッスオッス言いながらも重宝されるのはこの辺にあるのです。

 その辺はやっぱり政策を考えるうえで従前の伝統的な文科行政も尊重しつつ、大学無償化のように筋の悪い提言をいかに意味のあるものに置き換え、それなりに国民にとって価値があり社会がより豊かで実りある施策へつなげていくかは知恵の出しどころじゃないのかと思うわけです。それは、高校レベルの無償化でも中学校の内申点の問題から加熱しすぎている中学校受験にいたるまで、教育分野での社会状況の整理だけでなく「to be(あるべき姿)」って何だっけっていう見据えが政治的にも必要だということの証左だろうと思うわけですよ。

 おぎゃあと生まれて成人して大学に入るのは年齢で切るのは当然としても、このまえ医学部受験で女子受験生よりも男子のほうが入りやすいのでジェンダーなんとかだと騒いだ一件にしたって、女性よりも男性のほうが精神の成熟が遅く、晩成組は21歳ぐらいまで、精神的に緩いことは考慮に入れたうえで男性への逆差別も念頭に置いて制度設計しないと不公平だし、その辺の話は中教審の周辺でも分かってる有識者はちゃんと指摘し続けているのにぶん投げられ続けて「政治的に正しい」教育へ向かってしまっている現状はよく考える必要があるんです。「教育にエビデンスを」などと寝言を言いながら教育経済学を標榜しているのに論じている施策提言のいくつかに深刻な根拠不足があったりもする界隈なので、そこはちゃんと考えないといかんでしょう。

その中学受験と、大学入学共通テスト、AO・推薦入試の問題は

 これも追跡が必要な事柄なので任意でコホートやってかないといけないとこですが、中高一貫・中学受験成功組が、そこで伸び切って高校時代に燻りその辺の後から受験勉強始めたやつに抜かれまくってゴミ大学に入る話とか。

 あるいは、SAPIXにお布施300万、多感で大事な小学校5年生6年生や中学3年生は受験勉強のために夏休み冬休み潰して勉学に励んで(親が励ませて)いるのに、最終的にMARCHにも引っかからずうんこなのが起きます。

 そして、親が医者でクリニックを維持するために何としても我が子を継がせるべく強引に医学部入学させる目的で足りない成績を積む予備校代が半年300万以上みたいな話、そこここにあります。

 でも、学力一辺倒の「学力観」から多面的評価の「資質・能力」にシフトし、これが本当に子ども全体の能力を底上げできたのかと言われるとまあ分からんわけですよ。そもそも、日本をはじめとする東アジアの子どもたちというのは諸外国に比べて平均のFSIQ(総スケール知能指数)がおよそ8ぐらい高い、世界でもトップクラスに勉強のできる民族であることは前提にしておく必要があります。

 結論から言えば地方の高校だろうがイモ大学を卒業しようが、どうやら子どもの社会で活躍できる「稼ぐ能力」はかなりの割合が「その子の高校時代の数学の成績」で説明できてしまいそうである、という不都合な現実があります。

 有体に言えば、物事を選択し比較するときに、より効果の大きいほうを見抜いたり、物事を計画しては込んでいく段取りを行ったり、社会で必要な能力は数学分野に固まっていると言えます。これは、何が正しいかという観念的なものではなく、ひとつのルールの上に複数の選択肢があった際、そのルールにおいてより効用の高いほうを選択する能力です。

 次いで、ビッグファイブにおける堅実性(Conscientiousness)がその子どもの未来を大きく決定してしまう話になるので、それ以外のパラメータは、「その子の能力を伸ばすため」よりも「その子が無駄にやらかさない人生を送るために自分を制御する能力を身に着けさせるため」に指導する必要が出てくるでしょう。

 これは、組織・集団全体の合理的な判断をする経営能力を持つ子供を選抜したいなら、それに作用する能力をまず見ることで適性があるかを判断することに加え、逆のパラメータである違法なことをしないとか、自分の感情や欲望をコントロールできるよう陶冶するとか、人と信頼関係を維持・継続し仕事を完遂し長く組織で務め上げるとか、そういう副次的な方面をどうするのかという話を考えなければならないのです。

 数学能力の高い人は、自分から進んでやるかは別として、段取りや目利きは初見の事柄でもある程度本質を見抜いて正しい選択を下す可能性が高くなります。他方で、ADHDやASD気質を持つ人は、FSIQや数学能力が高くても先延ばしにして行動しないので分かっていてもやらないで、ダラダラしてタイミングを逃したり「やればできる子」と称され万年未完の大器扱いのまま馬齢を重ねてハイスペ子供部屋おじさんになったりします。そういうのはだいたい2ちゃんねるかTwitter(X)で常駐してるといっぱしのことを言うのに人間的にクソなため零細アカウントだったりするんですよ。馬鹿どもめ。

 呼ばれてしまった… この辺で

画像はAIが考えた『数学と少女』です


画像

いいなと思ったら応援しよう!

山本一郎(やまもといちろう)
神から「お前もそろそろnoteぐらい駄文練習用に使え使え使え使え使え」と言われた気がしたので、のろのろと再始動する感じのアカウント