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MUCA展、「ワーニャ」、「悪は存在しない」~不自由なのか、孤独なのか?

VUCAといわれるような、得体の知れない時代のなかで、答えを求めて、答えだけを求めてわたしたちはただひたすらに苦しい。テクノロジーは答えへの道筋を示すものなのか、あるいはわたしたちをさらに疎外し孤独にするものなのか。


アーバンアートの現代性とはなにか?

東京・六本木の森アーツセンターギャラリー開催されている「MUCA展」に行ったのはこのゴールデンウィーク中のことだ。「MUCA展」には、ドイツのミュンヘンにある現代美術(アーバンアートと各所に書かれている)だけを集めた美術館である「Museum of Urban and Contemporary Art (MUCA)」のコレクションが展示されていた。有名なところではバンクシーやバリー・マッギーといったところだろうか。現代的な表現や演出はわたしの目をじゅうぶんに楽しませてくれた。ただ、気にかかってしまったのは、いくつかの作品が社会的なテーマやメッセージが明確すぎるほどに前面に現れていることだった。格差、ジェンダー、社会的な権威へのカウンターというメッセージだ。こうしたアーティストの多くがストリート出身であり既存の美術教育を受けていないことが大いに関係するのだろう。

しかし、わたしはやや不安になる。「これじゃ、答えになりすぎる」と。芸術がどんな領域よりはやく未来をビジョンするものであるなら、これらの答えはどちらかといえば旧態依然なリベラルのそれで、これだけテクノロジーが発達し思想状況もイデオロギーも見通しが効かない現代にはやはり物足りないのだ。テクノロジーを礼賛し自由主義経済を祝う表現などがあったほうがかえって安心できるような気がした。誤解のないように付言しておけば、わたしはテクノロジーや自由主義経済に対してポジティブな表現には警戒感をもっている。

こうした作品に現代性があるとしたら、この明確なメッセージ、自信に満ちたアティチュードというのが得体の知れない時代では特異──芸術性を担保しうる偏重(乱調)──に映えるからなのかもしれない。そうだ。ほとんどの現代人、若者はとくにだろうが、明確なメッセージを発信することも、自信に満ちたアティチュードも、誰かにモデルを示してもらわなければできない。だから、この明確さ、自信が芸術性らしさを放つのかもしれない。
そんなこんなで、わたしはかえって「MUCA展」のコレクションに疎外感のような孤独感のようなものを得てしまった。
孤独や不安の埋め合わせのツール。大昔から芸術はそうであったように思いがちだが果たしてそうだろうか。芸術が、孤独をとりあげはじめたのはそれほど昔からのことではないのではないか。ヨーロッパの美術史でいえば、葬祭的なテーマがあり、神々を描く宗教画があり、ルネッサンスを経て科学的合理性から遠近法を得て事実をそのままに捉える方法が成熟し、バロック、ロココがあり、ロマン主義、印象派がいて、キュビズムがありと言った具合に変遷する。非常に大雑把だが、孤独が美術のテーマになっていくのはルネッサンス以降のことだろう。さらに大きなテーマとなったのは、19世紀末、フロイトが精神分析を興して人間に内面というものを“発明”してからではないのか。
美術史の入門書がやたらと書店で目立つようになったのは、ここ10年来の教養書ブームと軌を一にする。これもまた答えだけを求める人の多さを物語っているように思う。
とはいえ、そのなかでもわたしが贖った一冊は『美術の物語』(エルンスト・H・ゴンブリッチ著/田中正之、天野衛、大西広、奥野皐、桐山宣雄、長谷川宏、長谷川摂子、林道郎、宮腰直人訳/河出書房新社)という700ページにとどかんとする大部である。読破なんてことはできておらず、気になるところをペラペラと読むだけなのだが──。

歴史と政治が生み出した“孤独”

森アーツセンターギャラリーで「MUCA展」を観た帰り道、その昔、青山ブックセンターがあったところにある「文喫」という、有料入場のカフェスペースを書店と併設し、飲食しながら棚の本を選べるというコンセプトの書店に寄った。そういった良く設られた空間でゆっくり読書するというのが性に合わないほうのわたしはカフェスペースには当然のこと入らず店頭でめぼしい本を探した。すると柔らかなカバーデザインで、造本も好みに通じる一冊を見つけた。そのタイトルは『私たちはいつから「孤独」になったのか』(フェイ・バウンド・アルバーティ著/神崎朗子訳/みすず書房)という。昨年の秋の終わりに出たものらしい。さっそく買ったのだが、そうでなくとも積読が山脈をなしているわたしの生活環境において、いつ読むのかもあてのないことだった。そのときは──。
綺麗な装丁なので積読山脈にあっても目立つし、長い休みの気休めの読書──永井荷風の『摘録 断腸亭日乗』上下(岩波文庫)と『墨東奇譚』(岩波文庫)などを読み漁っていた──が済んで次の一冊というときに、つい手にとった。中身をチラ見して「あ、これは」と思いさっそく読みはじめた。というのも、わたしが若いときから関心をもっていた詩人シルビア・プラスの写真が掲載されているのを見つけたからだ。シルビア・プラスは天才と言われた詩人でありながら深い孤独に苛まれ、夫と子供を残してオーブンに頭をいれてガス中毒で自死した。ああ、孤独をテーマとした本にシルビア・プラスなのかと思い、俄然、読み気に逸ったというわけだ。シルビア・プラスは数年前、作品が新発見されて、日本でも柴田元幸の訳で『メアリ・ヴェントゥーラと第九王国 シルヴィア・プラス短篇集』(集英社)が出ている。彼女の大きなテーマのひとつである父権的なものへのコンプレックスを描いた掌編から、児童向けの童話までを含んでいて、シルビア・プラスの別の一面を知ることもできるので、ファンにとっては大切な本になるだろう。
さて、『私たちはいつから「孤独」になったのか』を読みはじめてみれば、序章のタイトルは「『近代の疫病』としての孤独」という。わたしが数年にわたってなんどもここで取り上げてきたテーマに深く合致していた。
もちろん、近代化がわたしたちの社会に孤独をもたらしたという論はさほど難しく考えなくとも理解できるだろう。
科学主義によって宗教が失われ──神の死!──、産業革命後の都市経済の発展によって村落コミュニティが破壊され、自由主義経済で競争が激化して人々はさらに個々に分断され、そうして先進国は高齢化社会を迎え老人は地域社会に取り残されていくというような見通しは納得感のあるものだろう。
文化史家である著者は結論に「孤独ほど政治的なものはない」と述べ、続けてこう論じる。

そこで私は、孤独を歴史的にとらえる必要があると主張してきた。目的はそれ自体だけでなく、孤独を当たり前の状態にしているヒエラルキーを暴露するためでもある。二一世紀の政治レトリックにおいて、孤独は普遍的であり超歴史的なものであると決めつければ、孤独は人間の条件であって、社会政治的かつ経済的選択の産物ではないということになってしまう。

『私たちはいつから「孤独」になったのか』

『私たちはいつから「孤独」になったのか』がわたしを惹きつけたのは、ソリチュードとロンリネスの違いから、文学的、芸術的な好奇心が求めた孤独について、シルビア・プラスが憧れたヴァージニア・ウルフに言及する箇所だ。

二◯世紀の初めには、ヴァージニア・ウルフの著作によって、ソリチュードと孤独(ロンリネス)が明確に結びつけられ、孤独は苦悩をもたらす感情状態であると同時に、創造的な企図に必要なものとされた。

『私たちはいつから「孤独」になったのか』

ウルフは孤独を精神の自立に必要なものとたびたび言及しているという。これこそ、冒頭のMUCA展にふれた際に、芸術が孤独を慰めるものとしてあったのではないかと書いたことの源泉だ。MUCA展の作品が精神的に自立した孤独な者たちによる連帯を求めているように感じ、その連帯のためのテーゼがひとつの答えとなって参加者の不安を取り除くような組み立てに感じられた。わたしはその答えには賛同できないので孤独感を募らせてしまったというわけだ。
人間は本質──ヒューマニズムの発想だ──的に孤独であるようにされているが、それは歴史的に醸成されてきたものにすぎず、その責任の一端は政治にある。著者は、そのことを丁寧に論じていく。
この本ではほかにもインターネット時代の孤独についても、近代化によって失われたコミュニティをSNSなどがあたかも代替しているかのようにみえて、個人と社会とのつながりがSNSのみにしかない場合には、さらに孤独を感じやすくさせていると述べる。個人は消費者として個々に分断されていることを背景に、インターネット上にオフラインの人間関係を代替させる場合と、オフラインの人間関係を補完させる場合で生じる違いを論じている。非常に示唆的だが、これ以上、立ち入る紙幅がない。

答えのない2つの物語

紙幅がないと言いながら、ふたたび『私たちはいつから「孤独」になったのか』に戻ると、この本では、自由主義経済は自然淘汰、適者生存という概念を人間社会に適用した社会ダーウィン主義を推進したことが繰り返し述べられている。いまでも経営者が、気が利いたふうにいう、「強い者が生き残るのではない。変化する者が生き残る」という誤った話をありがたがっている。この言葉は呪いとなってわたしたちに変化を迫る。あたかも進化論の呪いだ。この呪いがいまだにあちこちに蔓延していることをみれば、社会ダーウィン主義の影響も社会の至るところにあり、それがわたしたちをして現在から疎外させ孤独をもたらすことの一因になっている。
この連載で以前、進化論の呪いについて書いたのは、#17「『ドライブ・マイ・カー』と、ワーニャ伯父さんとダーウィンの進化論」でのことだから、もう2年半を経ている。このときに書いたのは、タイトルにも入っている濱口竜介監督の映画「ドライブ・マイ・カー」を巡って、その劇中劇になっていたチェーホフの『ワーニャおじさん』(小野理子訳/岩波文庫)にまで言及した考察だった。
最近、濱口竜介監督と「ワーニャ伯父さん」にまつわる2つの映画を観たので、話をそちらへ広げていく。1つはすでに話題になっている濱口竜介監督の「悪は存在しない」であり、もう1つはナショナルシアターライブの映画「ワーニャ」である。
ナショナルシアターライブ(略称、NTライブ)についてすこし説明しておくと、イギリスの国立劇場であるロイヤル・ナショナル・シアターで上演されている演劇舞台をフィルム撮影し映画館で上映するという企画で、日本ではTOHOシネマズのスクリーンで観ることができる。とはいっても上映館は限られ、上映期間も短いので見逃すと、動画配信はおろかDVD化もないのでどうする手立てもなくなる。そういう意味では演劇的であるし、現在、“流行”の倍速視聴はぜったいに不可能だ。
そのNTライブでこの5月末から上映されているのが「ワーニャ」である。友人が若い頃に演じたことで知って以来、チェーホフの、なかでも『ワーニャおじさん』に強い関心をもってきたわたしは何をおいても観たいものだった。幸いに、その友人がトークショー付きの先行上映を予約してくれたおかげで見逃すことがなかった。
そして、わたしたちは深く感動した。
この「ワーニャ」はハリウッド映画でも活躍する──山田太一脚本、大林宣彦監督の『異人たちとの夏』を翻案した「異人たち」でも主役の──俳優アンドリュー・スコットが一人芝居で演じるのだ。あのワーニャを、だ。あれだけの登場人物、それぞれがバラバラの属性、個性があり複雑な感情の行き来を描く戯曲を、だ。
もともと『ワーニャおじさん』を現代劇にするアイデアで、戯曲家のサイモン・スティーヴンスが翻案したものを稽古中にアンドリュー・スコットがひとりで演じたことから方向転換して一人芝居になったのだと、トークショーで演劇ライターの村上祥子さんが語っていた。
舞台は現代に置き換えられているが大筋は変わらない。もっとも変化が大きいキャラクターは、原作では大学教授だったワーニャの義理の弟でありながらずっと年嵩のセレブリャーコフが、本作では著名な映画監督アレキサンダーとなっていることだろうか。トークショーに村上祥子さんと登壇した東京大学の河合祥一郎教授は自虐めいて「現代では、原作の時代ほど大学教授に権威はないからではないか」と話していたが、おそらく当時の知識人の権威、啓蒙的な存在感というのを現代で求められる職業があるとしたら、それは世界的な映画監督ぐらいしかありえないのかもしれない。
面白いのは、#17で述べた「モスクワのある学者がかつての自分の論を、まったく変節してしまったことをワーニャの老いた母が嘆き、息子に愚痴る場面」は、この翻案ではかつてアレキサンダーを誉めそやしていた評論家が、そのことを後悔しアレキサンダー作品を酷評したという内容に変わっている。わたしはここに示唆を感じたので、すこしふれておく。
わたしが解釈したアレキサンダーはかつて社会派の巨匠でその先鋭なメッセージは政治的にも大きな影響力があった。しかし、政治状況がかわった現代ではアレキサンダーのメッセージはすでにアナクロなものでしかなく、そうなるとちょっとしたセリフにも現代風のポリティカルコレクトの鉄槌が下されて受け入れ難い映画となっているのではないか。もうすこし補足すれば、かつての社会ではひとつの答えでありえた彼のメッセージは、現在では空気の読めない誤答になっている。その場しのぎの答えを求める観客にはもはやアレキサンダー映画は忘れ去られるか、ネタとしてしかありえなくなっている。
わたしはNTライブの「ワーニャ」に感動したのだが、このアレキサンダーの孤独感や疎外感をもうすこしだけ感じられればよかったと考えている。良質な『ワーニャおじさん』においてセレブリャーコフの、忘れられた知識人の孤独は痛いほどに伝わるもので、そのことによってこの戯曲は単純な対立関係とも、加害者、被害者といった色分けも意味をなさなくなり、安易な答えを遠ざける。
近代が求めた──大学教授のような知識人が先導した──啓蒙的精神はしかし現在、答えとして成立しないどころか、有害でさえある。それは啓蒙する者と啓蒙される者という上下を生みだす。
この啓蒙的精神こそ近代の疫病のウィルスに違いない。それは現在ではテクノロジーを理解したふうのインテリたちにも、テクノロジストに敢然と反論とつきつけるヒューマニストたちの両方に通じている。

リバタリアン的、コミュニタリアン的

『私たちはいつから「孤独」になったのか』を読んだばかりだったわたしは、「ワーニャ」を観ながら思った。このワーニャの翻案であるアイヴァンという男は現代の意味において孤独だろうか。ソーニャの翻案であるソニヤはどうだろうか。ふたりともにあるのは強い疎外感だ。それは家庭の議論の中心を奪われていることと同時に、恋愛の敗者であることによってもたらされる。『私たちはいつから〜』でも恋愛においてソウルメイトから引き離される孤独について論じられていた。しかし、わたしにはアイヴァンもソニヤも疎外された者であっても、孤独だとは思えなかった。
なぜなら彼らはお互いに励まし合い、慰め合うことができる。そして、地方のお屋敷、森林という自然にふかく根差し、仕事がある。これは映画「ドライブ・マイ・カー」においてワーニャ的な人物であった家福、ソーニャ的人物であった渡利がもたないもので、その意味で家福と渡利の孤独は現代的な味わいをもっていたし、映画の結末にもたらされる、その恢復はひとつの答えを観客に与えてくれるものだった。
アイヴァンとソニヤの悲劇は、むしろ自由をもたないことにあるのかもしれない。選択できるはずの人生をもたないことにあるのかもしれない。屋敷と森林に取り囲まれて脱出できないという近代的な苦悩なのかもしれない。
わたしは考えている。では不自由はほんとうに不幸なのだろうか。啓蒙する者が求め、人類普遍の価値とする自由とはほんとうにわたしたちを幸福へ導くのだろうか。自由はわたしたちを幸福するのだろうか。
『私たちはいつから「孤独」になったのか』から、わたしが読みとったのは自由も孤独も政治的に生産されたものだということだ。わたしたちの多くは、ほんとうは選択もしたくないし選択肢について考えたくもないのではないか。
そういえば『断腸亭日乗』を読めば荷風の孤独を感じる。独居老人のそれも、家族から引き離された孤独も、時勢と結託する卑怯な文壇と相容れないがための孤独もある。しかし、それは選ばれた孤独だ。荷風は実弟夫婦との不仲から自ら関係を断絶しており、母親の危篤にも見舞いにいかない。母親を愛していながら、だ。荷風は自由であった。
だからこそ、ある意味で近代的な存在でもある。荷風は選べる人であるし、選択肢について考えたい人であった。彼が相手した陋巷の女たちにはそれはない。自由らしきを欲しながら変化を考えない。考える苦労があるぐらいなら自由も面倒だ。それが市井の人々の現実であるような気がしてならない。
不潔で愚かな生活をワーニャがどんなに嫌ったとして、清潔で生産的な現代は決してワーニャを幸福にしないだろう。そして、不潔で愚かな生活に安逸する当時の農奴たちも、清潔で生産的な現代を疑うことのない“社畜”たちも、そのままでいたいだけだ。自由なんかは面倒なだけ。
先月、NTTと読売新聞がだした「生成AIのあり方に関する共同提言」を読んで、わたしがまっさきに思い出したのはヒトラーのようなデマゴーグの言説はすぐにでもAIは生成可能だし、それはこれだけ答えだけを求める人が多い現代では簡単に浸透してしまうのではないかということだ。孤独で疎外感を味わっている現代人に、明確な答えを提示し扇動するのはAIの力があれば、カリスマも知能も要らない。
ナチスに容易に賛同した大衆の権威主義的パーソナリティについて、エーリッヒ・フロムは『自由からの逃走』(日高六郎訳/東京創元社)にあるように、人々は自由であることの重責と孤独に耐えかねて「選ばされた自由」に靡いてしまうとナチスまっさかりのドイツで考えていた。
いま、自由であることの重責と孤独に耐えかねた人たちの前にデマゴーグAIが登場したらと思うとゾッとする。

答えではなく希望を

『ワーニャおじさん』のみならず、アントン・チェーホフはみずからの戯曲に安易な解答もメッセージも託していない。そうでなくとも「喜劇問題」という、示唆がなさすぎて自由な解釈が許されるゆえに負荷の高い問題を残していったのだ。
『100分de名著 チェーホフ「かもめ」2012年9月』(ムック/NHK出版)のなかで文学者の沼野充義は、チェーホフは答えとなる悲劇的な進行の決着を描かないと述べている。読み解きのヒントになるようなドラマチックな出来事も舞台上では発生しない。トレープレフの自殺は銃声のみで示唆される。
ただし、チェーホフはエンディングにちいさな希望を置く。それは皮肉ではなくほんとうに心に沁みるものだ。答えをはぐらかすが絶望を残すわけではないのだ。これだけ答えだけを求められる時代にチェーホフを観る意味はそこにもある。
チェーホフの戯曲の喜劇性は登場人物間のディスコミュニケーションにある。『100分de名著〜』でも1章を割いてふかく考察されているが、登場人物たちの互いに対する小さな誤解や憧れや蔑みが、彼らの承認欲求を滑稽なものにしている。
NTライブの「ワーニャ」でもその部分は十二分に演出されており、一人芝居であるがゆえにある種、落語的な滑稽さが際立ってもいた。事実、劇場内に大きな笑いが起きていた。
ずいぶん、話があっちこっちに行ってしまった。最後にもうひとつだけ述べておきたいのは、『ワーニャおじさん』を重要なモチーフにした名作「ドライブ・マイ・カー」を撮った濱口竜介監督の新作「悪は存在しない」もまた悲劇とも喜劇ともいえる物語だったのだ。ネタバレは避けなければならないが、この映画作家もこの映画に安易な答えを提示してはくれない。都市の論理と山村の伝統という図式的な構成をすこしずつ崩しながら進行する。
主人公は森の住人であり一人娘と暮らしている。その情景も、どこかチェーホフを思わせる。ロシアの深く暗い森林を思わせるシーンも多いせいだろうか。「悪は存在しない」でも、劇場内に大きな笑いを起こしたシーンがあったことも付記しておきたい。
山村の伝統などといっても、たかだか戦後の数十年でつくられたものだと率直に述べられるし、都会の論理を持ち込む側にも確たる根拠がない。正当性がどこからも得られない現代の縮図というわけだ。そういう意味で非常に今日的な映画であり惹き込まれた。
いまはここまでにとどめておこう。

わたしたちはどうしてこんなにも不安なのか、孤独なのか、いったい何から疎外されているのか。近代をめぐって、そのテクノロジーと政治、経済をめぐってずっと考えている。
政治や経済を変えうるものはなんだろうか。それは啓蒙的なイデオロギーではない。
リベラルアーツやらの教養主義も、テクノロジーも、多くの人たちをして自由から逃走させてしまう。安易な答えを避けても、その意味を考えるのは一部の人だけで、多くはすぐに飛び付ける安易な答えが欲しいだけ。
そんな時代に必要なのはなんなのだろうか?

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