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小学校の「お世話係」に思うこと

日本の小学校では「お世話係」という役割を児童に与える慣例があるように思います。

慣例と書いたのは、はっきりと明文化されたことではないけれども、暗黙に取り入れられてきて、続いている仕組みだと思うからです。

お世話係とは「勉強や行動面で集団についていくのがやや苦手なお子さんをサポート、お世話する係として、同じクラスの優等生が担う役割のこと」だと私は認識しています。(認識違いでしたらぜひご指摘ください)

「私、昔、そうだったかも」という大人の方は結構いらっしゃるのではないでしょうか。

その特徴は、直接教師から指名されるわけではなく、該当児童はなんとなく、そう察する形で認識するような役割だという点です。席を近くに配置されるとか、何となく自然と、困っている児童を助ける形になるという感じです。

一方、教師側は比較的明確に「〇〇さんは〇〇さんにつけるお世話係」と認識して、クラス編成や学級運営をしている場合が少なくないように思います。(忖度で回っていく日本人集団の源泉の一つだと思います。はっきりは言いにくいから言わないけど「察してちょうだい」という)

担任1名が30人から40人の児童集団をまとめやすくするために設けられた、ミニ先生のようなポジションであり、お世話係の児童は、児童でありながら教師的なアイデンティティも一部、暗黙裡に付与されることになるように思います。

それにより、クラスがまとまりやすくなり、助け合いを学ぶことにつながったり、お世話係の児童は皆から一目置かれ、リーダーとして自尊心を高めるといった意味合いもあるようには思いますが、実は副作用もあると思います。

その大きなものとしては、お世話係の児童は、大人的なポジションに置かれるため、学校で子どもらしくいることが難しくなり、彼らにも当然に必要な情緒的な「ケア」を受けにくくなる。ということが挙げられます。

該当の児童は、友だち、先生から、お世話係であることをどちらかというと肯定的に評価される「空気を感じる」わけです。

仮にその役割を負担に感じていたとしても、評価されることを「辞めたい」と言うのは、子どもにとって至難の業だと思います。

どことなく違和感や負担を感じながらも「まあ、できなくはないし、いっか。」とお世話役を引き受けているのではないかと思われます。

また、他者に評価されることで自尊心やアイデンティティを保つことが学習されやすくなると思われます。

「もっと評価されたい」と思い、お世話係としての影響力をさらに強めたくなるかもしれません。

一つ間違うと、力による支配のような図式になり、表では「助け合い」の姿をしていながら、裏では「出来る子が偉い」「出来ない奴を助けてやっている」という感覚が生まれてしまうかもしれません。

辛いときには辛いと言える。悲しいときには悲しいと言える。これにより人の情緒は安定します。

お世話係さんは、このことがやや難しくなりやすいと思います。

特に、ご家庭でも、何らかの事情で情緒的なケアが得られにくい場合には、学校が頼りですが、学校でも得られにくいことになります。
(少し意地悪な言い方をすれば、公教育は家庭力におんぶに抱っこという部分は未だに否定できないと思います。安定した家庭に恵まれない子には、とっても辛いことです)

お世話係は、「辛さを隠して皆のために頑張り認められる」、「悲しみを見せずに気丈に振る舞い褒められる」こういったことで気持ちを安定させようとしてしまうことになりがちだと思います。

(もちろん、「そうではないよ」というご意見もあるのは承知しています。お世話係さんの心情も把握して声かけをされる先生方もいらっしゃいます。すべてのお世話係に当てはまるわけではないとは思います。ただ忙しい学校現場でそのゆとりのない先生方も多いのではないでしょうか。)

お世話係の児童は、行動面や学習面では他の児童よりも抜群に優秀な場合が多いのでしょう。

しかし、情緒面では、どの子どもにも年齢相応のニーズがあります。抜群に情緒が成熟しているような例はそれほど無いように思います。

(情緒の成熟は、その時期その時期の課題があり、飛び級で進めるようなものではないと思います。例えば微分積分の問題は小学3年生でも、訓練をすれば解ける能力がある子もいるかもしれませんが、異性との親密性の課題は小学3年生では、どんなに訓練しても解けないところがあるのではないでしょうか。)

お世話係の子どもは、情緒のニーズを周囲に拾われにくくなり、弱音を吐いたり、ヘルプを出しにくくなり、過剰適応傾向に陥るリスクがあるように思います。

お世話される側の子たちの方が、相対的に情緒的なニーズが見えやすいからです。

でも、お世話係だって、甘えたいし、泣きたいし、ぐずぐずしたいときも当然あるでしょう。

しかし、「自分は弱音を吐いてはいけない」「自分がちょっと我慢すれば丸くおさまる」とお世話係は察知し、実際そのように振舞えてしまいます。

周囲はそれを「情緒が育っている」、「安定している」、「いい子だ」と錯覚します。
(「〇〇さんは非の打ちどころがありません。お家でどのように育てていらっしゃるのですか?」と教師は思っても、お家でも、忖度して良い子をしているだけと言う場合もあると思います。)

(お世話係システムは、学校現場の実情から生まれた役割であり、教師達も、わかっていながらやむを得ず、彼らに我慢を強いていると感じているのだろうと思います。心を痛めておられる先生方も多いでしょう。実際、そうでもしないと現場は回らないのだと思います。教育への予算、教育システムの問題が大きいだろうと思います。そのしわ寄せは子どもに。)

子ども時代に、気持ちのヘルプを出せることを身に着けることは、生涯に渡りその人を支える財産になるように思います。

ヘルプを出せないと、一人で解決することになります。

一人で解決する姿勢を続けると、孤立していってしまいます。

孤立は、とても苦しいものです。

孤立の苦しさからは、様々な不適応が発生していきます。

将来のリーダーを担う素質のある人材でも、情緒が育ち安定していなければ、大人になってから安定的な力を発揮しきれないものと思います。

では、お世話係の心の痛みはどこに消えているのか。

きっとお一人で抱えて大人になっている方も非常に多いのではないか。

そのように感じています。

感情は、いくら過去のことでも、過去にならずに生々しく残ってしまうことがあります。

大人になってから、小学校時代のあの場面をふいに、今起きているかのように思い出して、辛い気分になる。なんてことも実は当然あり得ることです。

ただ、希望はあります。

感情は、大人になってからも、育てていくことができます。(という立場に立ち私は臨床をしています) 

専門的なカウンセリングはその一つの方法です。

元お世話係の方。かつて優等生だった、そして今もリーダーを担っている方。一方で、なぜか前のようにリーダーが勤まらなくなってきてしまった方。

人には見せないようにして、気丈に振舞っているけれども・・・という方に、心の痛みを吐き出しにいらしていただく場所をご用意しております。

完全にお忍びで利用できる開業カウンセリングは、優秀なお世話係の方にとって、比較的抵抗なく訪れることのできる場所ではないかと思っております。

この文章を読み、心のどこかがわずかにでも疼いた方は、もしかしたらお世話係の悲しみが疼いているのかもしれません。

その声に耳を傾けてみる、自分を大切にし、今から感情を育てていく時間を持ってみるのはいかがでしょうか。

より安定したリーダーでいることにも、その取り組みはきっとつながることだと思います。


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