生まれ変わったらなりたいモノ(もう人間にはなりたくない件について)

 異世界転生ものというジャンルがあるけれども、いつも不思議に思うのは異世界でも人間になりたいという感情である。スライムへの転生もあるではないかとの声もあるかもしれないが、ずっとドロドロのスライム状態ではなく結局人間の姿になっているから、やはり人でありたいという気持ちに変わりはない。

 私は人生は辛く悲しいことばかりであると思っているし、それは人として生まれた宿命なのではないかとも感じている。これまで様々な人生の悲劇を見てきたし、勿論私もその舞台に立っており救済されることはなくその人生を終えるのであろう。こういう考え方なので、私は子を持たないと決めているし、また転生しても同じことが繰り返されるわけであるから、もう人にはなりたくないと思っている。では、生まれ変わるのならどんなモノになりたいのかを表明するのが本論の趣旨である。

 アダルトビデオの行為の最中に背後で鳴り響く救急車のサイレン音になりたい!

 40歳を過ぎた今でも、私もアダルトビデオが好きで(特に熟女ものを好む)FANZAで毎月幾つかエロ動画を購入している。余談であるがコロナ禍の在宅生活支援の名のもとにFANZAが10円で動画を購入できる期間を設けてくれたことには今でも感謝している。
 数々のエロ動画を観て気づいたのは、時々セックスの最中の喘ぎ声に救急車のサイレン音が重なることがあるということである。消防白書等を読むと一日あたり1万件以上の救急搬送があるようであるから、そういったことは時々生じるのであろう。
「ふあっ…あん…あはぁんっ、イク…イっちゃう」「ピーポーピーポー」という流れには性と死というようなことを感じると同時にある種の滑稽さがあり、その微妙な雰囲気がよいと私は感じている。そして生まれ変わるのであれば、こういう存在になりたいと思うのである。ただし、救急車になりたいわけでも、通常のサイレン音になりたいわけでもなく、あくまでセックスの最中に背後で鳴り響く救急車のサイレン音になりたいのである。

 米唐番になりたい!

 エステー株式会社より販売されているお米の虫よけである米唐番は私にとっての必需品である。米びつのなかに赤いソウルジェムような米唐番があると安心する。寡黙でありながら家の片隅でその役割を果たす姿は魅力的で、徐々に小さくなり最後は空に消えるという散り際も寂しさのなかに美しさがあるように思う。人間としてもそういう存在になりたかったけれど、なれなかったように感じるので転生したら米唐番になりたいと私は思うのである。

 転生しても人になるという考え方は現生における果たせなかったことを、人生をやり直すことによって果たしたいという願望なのかもしれず、それだけ現代社会というのは今ここにいる自分自身を肯定することができない苦しみに満ちた世界なのかもしれない。けれども転生してもまた同じように失敗しそれが繰り返される可能性もある。人の業から逃れることは難しい。

「人生とは、病院の一人一人が寝台を変えたいという欲望に取りつかれている、一個の病院である。或る者はどうせのことなら暖炉の前で苦しみたいものだと望んでいるし、また或る者は窓の側にへ行けば良くなるだろうと信じ込んでいる」と書いたのはボードレールであるが、この散文詩の題名は「この世の外へなら何所へでも」である。だが、この世の外が異世界転生であるとは私には思えない。そこには現世と同じような社会があり人間関係があるわけだから。そういうものから解放された場所がこの世の外だと思うけれど、今のところそれは死以外にはありえないように思える。けれども生きていかなければならないのであれば、人間ではないモノあるいは動物に生まれ変わることを考えてみることは、心を軽くするためのひとつの方法なのではなかろうか。

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