オリンピック開会式の失敗あるいは勘違いサブカルおじさんの悲劇

 私はオリンピックにあまり興味がなく、40数年生きてきたがその開会式をきちんと観たことはこれまで一度もない。だが、今回の東京オリンピックの開会式は観ようと思っていた。そこには今の日本の姿が分かりやすく象徴されるからである。そして、その姿はみっともなく悲しかった。これが今の日本であるということなのかもしれない。このみっともなさと悲しさは、画面に映し出される安っぽい演出だけに起因するわけではなく、同時に自身の過去と重なり合うところもあったから尚更辛かった。

 今回のオリンピックの開会式はエンターテインメントに徹するのではなく、サブカル系の斜に構えた傲慢さが全体を覆っていたように思う(なお私がここで定義するサブカルにアニメとゲームは含まれていない)。しかも、様々なジャンルの専門家を集めたのではなく、広く浅く知識を得た人間が、自身がオシャレだと思い込んでいる演出で全体を覆うというような感覚があったと思う。それは歌舞伎とジャズピアノの共演とお笑い芸人による寸劇に象徴されていた。
 伝統的な文化と今の文化を融合させるといったようなことは、既に散々行われてきていて、そこに新しさはない。伝統的な文化そして今の文化への敬意が全く感じられず、古いものと何となくオシャレな新しいものを融合させれば新鮮だろうという安易さがそこにはあった。また、いきなり登場したテレビクルー姿の芸人たちが行う寸劇も、シュールだけど面白いといったようなサブカル的演出だったのかもしれないが、何を伝えたいのかがよくわからない本人たちだけがイケてると思っているだけの薄ら寒いものであった。

 今回のオリンピック開会式はエンターテインメントの本道ではなく裏道であった。まさにサブカルチャーである。オリンピックという大衆のための祭典で裏道的な演出をする必要はない。けれどもそうした演出をしたのは、その中枢にいた人間がサブカルを拗らせ、大衆を見下しながら、自身がオシャレであると勘違いしていたからなのではないかと思えてくる。勿論、若く未熟な頃はこうしたことは起こり得る。けれども年齢を重ねてそうしたことをやっているのであるとするならば、それはただ単に痛いだけの中年であってオリンピックの開会式という場所にはふさわしくないだろう。こうした人選が行われ、最終的に開会式が失敗したことの責任は究明すべきである。時間とお金をかけた計画が失敗した場合、その責任を明確にしなければ同じことが繰り返される。限られた状況でもそれなりにやったという同情は不要である。かつての戦争で日本はそれを行わず、過ちを繰り返す指揮官たちが多くの兵士を死なせてしまったことを忘れてはならない。けれどもある意味、日本の組織は戦後も責任の明確化を行うことができず、そのことが今回の失敗に結びついているのかもしれない。

 今回の開会式で唯一よかったのは入場の際のゲームミュージックであった。けれども選ばれた楽曲をループさせるのではなく次々と新たな楽曲を演奏し入場を終えて欲しかったと感じるし、演出の工夫があってもよかったと思う。だが、これは妥協のひとつだったのかもしれない。私はサブカルの定義にアニメとゲームを含まないと書いたが、それらは既にサブではなくメインカルチャーだからである。サブカルに染まる開会式での抵抗の形がゲームミュージックであったかもしれない。

 辛辣な言葉続いたが、この批判は私自身にも向けられている。それは私も勘違いしたサブカル人間だったからである。今回のオリンピックでは自分自身の恥ずかしい過去を見ているようで辛かった。繰り返すがオリンピックは大衆のための祭典である。だからその始まりはエンターテインメントの本道であって欲しかった。サブカルの持ち味はその弱さにある。けれども表舞台に出て強くなろうとしたらその弱さが怪物化してしまい式典がめちゃくちゃになってしまったのが今回の結果である。アスリートはどんな状況でも最善を尽くすだろう。だからこそ開会式がこんな形になってしまったことはとても悲しい。

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