やはり不倫は文化(人の業)

 有名人が不倫をしたときに、マスメディアや世間はその行為を激しく非難するわけであるけれども、社会人生活を何十年もやっていれば、不倫なんて自身が属している組織では割りと普通に行われていることを理解しているはずなのに、有名人が不倫したらそのことを忘れてしまい攻撃に転じてしまうのは何故なのであろうかと感じることがある。そのことについてあれこれ考えてみたいと思う。

 1. 恋愛結婚という信仰が崩れてしまう
 
 現代において、恋愛というのは以前ほどではないせよ、ひとつの信仰である。異なる個人が、幾つかの偶然を経て出会い、恋をしてその結果として結婚するという流れは、現代において多数の人が辿ってきた道であり、信仰でもあると思う。しかし、結婚をして恋愛感情を維持し続けるのは至難のわざであることも、多くの人が理解していることであろう。結婚し子供がいれば、父と母という役割があるし(ここ日本では妻が夫のことをお父さんと呼び、夫が妻のことをお母さんと呼んでしまうことはその象徴であろう)、その過程のなかで恋愛感情は喪失し、それは情や執着、ひどい場合は憎悪へと変貌してしまう。けれども、考えてみればこれは仕方のないことである。

 恋愛をやっていたときは数年おきにその関係を終わらせたり新たに始めたりしていたのに、それを急に止めて一人だけをずっと愛し続けるというのは、それを維持させるだけの思想が必要であるが、そんなものは存在するのであろうか? かつては神がいたかもしれないが、ここ日本には強い神は存在しない。家を維持して次の代につなぐというような考え方は今ではなくなっている。欧米であっても自由恋愛とそこから生じた結婚が数多くの悲劇を生み出していることは、例えばミシェル・ウェルベックの『素粒子』などを読めば深く理解できるはずである。

 だが、出会って恋をして結婚したという過程とこれまでの時間を否定するのは苦しいことである。だから恋愛結婚という信仰を捨てることは難しい。その信仰に揺らぎをかけくるのが不倫という行為であるから、激しい攻撃が生まれてしまう。だが、ここで問題なのは、攻撃する人々自体が恋愛結婚という信仰が嘘ではないかと気付いていることにある。だからこそ攻撃は激しくなってしまうのである。

 2.嫉妬

 先に私は不倫を攻撃している側の恋愛結婚という信仰自体が揺らいでいると書いた。実はこのことが嫉妬の感情の源になっている。「自分も不倫したいけれど我慢しているというのに、こいつらは上手くやりやがって」というわけである。信仰の揺らぎと嫉妬が合わさるとその攻撃性が更に増す。しかも、自身が所属している組織では不倫が行われていても、堂々と批判できない状況も火に油を注いでしまう。
 
 他人の痴話など放っておけばいいのだけれども、そうはいかないところにはもうひとつの理由がある。それは不倫は誰にでもできるわけではないという事情である。
 
 人は歳を重ねれば容姿も衰える。また日々の繰り返しのなかで、出会いの機会は失われてゆく。また家庭を維持するにはお金が必要である。恋愛にお金を割く余裕などない人もいるだろう。そんななかで、性的な魅力を保ちつつ、新たな出会いもある。場合に寄っては金銭的な余裕もあるとなれば、嫉妬はルサンチマンの領域へ突入してしまうのである。

 3.処方箋はあるのか?

 ここまで書いてきて思うのは、結局不倫の問題というのは、やる側よりも、そのことを批判している側に問題があるのではないかということである。信仰が揺らぎ、日々の生活に余裕がないわけである(長引く日本の不景気や格差も影響しているだろう)。では、処方箋はあるのだろうか。

 まず考えられるものとしては、結婚をしないという手段がある。私自身はこの方法を選択している。同じ人をずっと好きでいることは私にはできないと思っているからである。しかし、この方法には問題がある。人は孤独に耐えられないということである。そして他者からの肯定が必要な生き物でもある。私は自殺と孤独死を受け入れているが、それは特殊な人間の覚悟であって、一般的な処方箋とはならないだろう。恋愛結婚が問題を抱えながらも廃れはしないのは、現代において人の孤独をどうするかという問題に、ある程度の回答を用意していることが大きいのだろう。

 では、恋愛と結婚(家庭)を分けるという方法はどうであろうか。これは最初から例えば見合い結婚とかであれば尚よいだろう。家庭生活を乱さない範囲であれば不倫は容認するという考え方である(容認しないのであれば姦通罪を復活させる方法もあるけれど、自由意志とそれから派生した恋愛を基盤とした今の社会には向かない)。このことは、声高に主張しなくても実際にやっている人はいる。ただし、これには達観が求めれらるし、実際にやってはいないけれども不倫しようと思えばできなくもないというような余裕(お互い様というような感覚であろうか)が本人になければ難しいだろう。そして、不倫を割り切ることも実は限られた人だけにしかできない。最初は割り切っているつもりでも、どちらか一方が、あるいは両方が燃え上がってしまうというのはよくある話である。

 金をばら撒いて皆が豊かな社会を作れば少しは状況が緩和するような気がしないでもないけれど、そんなふうにはなりそうにない。

 結局のところ、処方箋はない。やりたければバレないようやるしかない。けれども燃え上がってしまうとスキができてしまうのが悲しいところである。あるいは恋愛感情だけは受け入れてそれ以上の関係は望まないというプラトニックな関係もある。そういえばラファイエット夫人の『クレーヴの奥方』はそういう話であった。17世紀のフランスで書かれた小説であるけれど、結局不倫の問題は昔からあることで、人々はそのことについてあれこれ考えてきたわけである。やはり不倫は文化というあの名言を思い出す。それは人の業でもあり、人間はどうしようもないなと思いながら酒でも飲むしかないのだろう。

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