人生の悲しみあるいは距離について

 四十数年生きてきて、人生は悲しいものであると実感している。若い頃からそういう予感はしていたけれど、今では予感は実感へと変わってしまった。幼い頃、父が酔って「お前は人生が何だか分かるか? そのうち教えてやる」と私に言ったことがある。結局、人生が何であるかを教えてもらう前に父は自殺してしまった。けれども、それが回答だったということなのかもしれない。

 先日、長く連絡を取っていなかった知人から連絡が入った。その人は離婚や不幸な恋愛を繰り返し人生に失敗してしまったという印象がある。恐らくその根底には愛情を得られなかった幼少時代、特に父親との関係性に問題があって、そこを改善できないまま今に至っているように感じられる。そういうふうに私が感じることができるのは、その人と私は似たような境遇にあったからである。そして、人生に失敗したからである。けれども、だからといってお互いの傷を癒すことはできない。そこには長い距離がある。私はその人に公的機関の援助について幾つかのことを伝えるに留まった。過剰な反応をしないようになったのも、人生は悲しいものであるという実感があるからなのだろう。

 人生は悲しいものであると実感するとき、私はいつもバド・パウエルと永井荷風のことを思い出してしまう。長くなるが『マイルス・デイヴィス自叙伝』と金子光晴の『絶望の精神史』から引用したい。


 何杯か飲みながら、いろんな話をしていると「バドがピアノを弾くぞ」という声が聞こえた。バドの演奏はずっと聴いていなかったから、すごく嬉しく思ったことを覚えている。バドはステージに歩み寄っていくと、〈ナイス・ワーク・イフ・ユー・キャント・ゲット・イット〉を弾きはじめた。だが、最初は超アップテンポの素晴らしい演奏だったのに、何かが起こって、ばらばらになってしまった。まったくひどいものだった。オレも、そこにいたみんなも驚いてしまった。言葉を発する者もなく、いま聞こえている音楽がバドのものかどうか、信じられないという表情で見合っていた。演奏が終ると、クラブには沈黙が漂った。

 バドは立ち上がり、白いハンカチで汗を拭うと、お辞儀のようなポーズをした。オレ達はどうしていいかわからなかったが、とにかく拍手した。彼のひどい演奏を聴くのは、オレ達にとっては惨めなことだった。バターカップはステージを降りるバドを迎えにいって、少しの間、何か話していた。まるで何かが起きたか知っているかのように、バドはとても悲しそうだった。精神分裂症がひどくなって、過去の彼自身の抜け殻になっていた。バターカップは彼をオレ達の所に連れてきたが、オレ達は当惑しきって声も出せず、本当に感じたことをなんとか隠そうとしていた。完全な沈黙だった、完全な。あの静けさじゃ、床に羽が落ちる音だって聞こえただろう。で、オレは、イスから飛び上がり、バドに抱きつきながら言った。「バド、そんなに飲んだ時は弾いちゃダメだ。わかっただろ、な、わかっただろ?」

 彼の目を見つめて、みんなにも聴こえるように言った。彼はちょっとコクリとして、狂った人間特有の、遠くを見るような理解できない笑みを見せて座った。バターカップはほとんど泣きながら、オレの機転に心打たれて、立ちつくしていた。他の連中も突然話しはじめて、すべてがバドの演奏前の状態に戻った。だが、助け舟を出そうとオレが言ったことだって、ひどく失礼なことだ。違うか? バドは、オレの友達で、ベルビュー病院に送られて痛めつけられるまでは最高のピアニストだったんだ。そのバドが、外国のパリで、自分に何が起きたのかもわからず、また気にもしない連中に囲まれて、ただの飲んだくれの酔っ払いと間違えられたかもしれないんだからな。そんなバドに会い、ひどい演奏を聴くというのは本当に悲しいことだった。オレは生きている限り、あの時のことは忘れない。(『マイルス・デイヴィス自叙伝』より)

 荷風は、僕が味わったようなヨーロッパ文学の伝統と完成美で、粗雑な現代日本に幻滅し、エトランゼを味わったことでは、僕に似ていたが、彼には、帰るべき古巣があった。彼は、爛熟と頽唐美にかけては、西洋のいかなる文化にも劣らぬ繊細で、多彩で、調和のとれた江戸末期の亡霊の世界へ、安ペカな、西洋まがいの新文化をしり目にかけ、ひとりさびしい後ろ姿をみせて帰っていった。
 
 『狐』や『雪の日』のようなリアリズムのすぐれた小説の作家、『あめりか物語』や『ふらんす物語』のエキゾチックな作家が、柳亭種彦や為永春水の世界に帰って、人情話『隅田川』を書いたとき、日本の文化人は、彼を見放すほかなかった。五十年の氷の谷を、彼は跳び越したのだ。あの世界との切り口は、もはやふさがりようがない。伝統は対岸でぶっ切られて、いま残っているものは死んだ型だけで、好事家たちがその保存のためにひたいをあつめているにすぎない。

 南宋の都臨安の栄華は、層楼、飛橋の酒楼、茶房があってのことのように、天明、化政の文の綾、筆のおもしろさは、青楼、花街のにぎわいが、その背景をなしていればこそであった。あのうらぶれた江東の私娼窟のどぶ板づたいの抜け裏を、元気なく痩せおとろえた宿なし犬のようにさまよっていた老エトランゼ荷風の姿はかなしい。おもいがけず、そこでみかけた荷風と、銀座界隈の汁粉屋で以前みかけたその人のとりつくろった横顔とは似ても似つかないものであった。

 人と人がもっと気軽に心のうちを見せあうことができるものであったら、呼び止めて話しかけることだってできただろう。だが、僕の心も苦渋にみち、老エトランゼもそんな心境にむかいあう辛抱があろうはずなく、二人の人間のあいだにかける橋がないのは分かっていた。僕もすれちがったまま、ふりむくこともしないで立ち去った。人間どうしの離合は、残酷なものだ。ひとたび、はなれたもののあいだを埋めるものは、「絶望」にほかならず、五十六億七千万年を越しても、僕と荷風が、向かい合って話しあうようなときは、ぜったいにもう来ないのである。(金子光晴『絶望の精神史』より)


 若い頃にこの場面を始めて読んだとき、胸を締め付けられたものであるが、その時は人生は悲しいものかもしれないという予感にその場面が重なった。けれども今は、予感ではなく実感としてその場面を受け止めることができる。それは私が歳を重ねたからなのだろう。そういえば若い頃はヨーロッパの悲劇的映画をよく観ていた。その頃は悲劇に接することである種のカタルシスがあったような気がする。今ではそういう悲劇的作品に触れることは少なくなった。それは、人生そのものが悲劇であることを私が実感しており、もうこれ以上それを感じ取りたくないと思っているからなのであろう。

 久しぶりに連絡をくれた知人に私は会うことはないだろう。金子光晴のように私も「人と人がもっと気軽に心のうちを見せあうことができるものであったら」と思う。けれども人と人の間には埋めることのできない距離と自分自身の悲劇がある。ラーメン屋のカウンターでひとりビールを飲んでいるといつも人生は悲しいものだと思う。その気持ちを抱きながら私はこれから生きてそして死んでゆくのだろう。


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