40代独身はメンヘラを卒業することは可能か?

 40代独身の男女がメンヘラを卒業、あるいはそれをある程度緩和させることは可能なのであろうかと考えることがある。というのも、最近メンヘラを拗らせて50代を迎えてしまった独身の人々に接する機会が何度かあり、これは他人事ではないと改めて感じたからからである。なおここで私が定義するメンヘラとは、心に問題を抱えていて人間関係に障害を起こしてはいるが、最低限度の社会生活はを営むことができる人々を指す(社会生活が営めない場合は、専門家による医療的なケアが求められる)。そういった人々が拗らせた自分自身を静かに着地させ、ある程度穏やかな生活を送ることは可能なのであろうかというのが、本論の趣旨である。なお、この文章を綴っている私自身も40代独身である。

1. 結婚及び恋愛を諦める

 いきなり身も蓋もないが、結婚と恋愛は諦めるべきである。私たちの世代は恋愛中心主義の影響を多かれ少なかれ受けているため、偶然出会った二人が恋愛を成就させ結婚するストーリに惹かれるものがある。しかも、孤独で苦しい日々を送っていると、出会いが自分の惨めな人生を変えてくれるかもしれないと思ってしまう。だが、そうした出来事が起こる可能性は奇跡に近い。奇跡を信じることもひとつの生き方ではあるが、自身の救いを同じ人間である他者に求めるのは無理がある。そしてそうした考え方だと出会う相手も同じような考え方であるから、お互いを利用する結果となってしまい、不幸な結末となってしまうのである。あるいは暴力的だったり病的だったりする人間と出会ってしまい心身共にボロボロになってしまう可能性が高い。そうした悲しい出来事を見聞きしてきたからこそ、今私はこの文章を綴っているとも言える。若い頃は不幸な恋愛もひとつの糧になるかもしれないがしれないが、40代を過ぎてそうした恋愛を続けると社会的な信用も失ってしまうだろうし、そもそも我々は中年であり若い頃と比較して体力が著しく低下しており、それを維持するにはある程度の努力が必要であり、不幸な恋愛を繰り返しながらもそれに耐える体力を持っている人は少数であろう。
 自身の救いを同じ人間である他者に求めることをやめたときにこそ、自身の現状とその心境と合わさる他者と出会うことができるのかもしれない。しかし、それは仮定の話であるから、そうすると孤独をどうするのかという問題が生じてしまう。人は一般的に孤独に耐えられるほど強くはないから。

2. 孤独を適度に肯定する

 人間は誰かと関係性を保ちたいと思いながらも、時にはひとりでいたいとも感じる。人は群れ(社会)の中にいなければ生活ができない。また他者との関係性において自我を形成してゆく。けれどもそうした常に存在する他者を煩わしいとも思ってしまう。人間はコミュニケーションと孤独の間で揺れ動く存在なのであろう。
 40代独身は基本的に孤独である。実家に住んでいても孤独ということもあるだろう。生活の単調さもその孤独に拍車をかけてしまう。かつては趣味や友人との人間関係で孤独を紛らわすことができたかもしれないが、体力の低下とともに趣味に対する情熱あるいは渇望も薄れてゆく。周囲の友人たちは結婚し家庭という時間のなかで過ごし始める。孤独の中で、生きている意味を問い続け深淵を覗き込んでしまう。恋愛結婚というシステムが大きな問題を抱えながらも続いているのは、生活の単調さ(退屈)と孤独の解消という点である程度の効果が期待できるからなのだろう。しかし、先にも述べたように、40代独身が、今更恋愛及び結婚を試みるのはリスクが大きすぎる。
 では、どうしたらよいのか。孤独を適度に肯定することと、他者との緩い繋がりを維持していくことが大切なのではなかろうか。孤独を適度に肯定すると書いたが、これは過剰に肯定しないための処方箋なのである。過剰に肯定すると先に述べたように、生きる意味を問い続け深淵を覗き込んでしまう危険性がある。深淵は覗く必要はないしそれがあると感じられるのであれば近づかなければよい。しかし、孤独である現実を見て見ぬふりはできない。それをなかったことにすると逆に過剰なコミュニケーションを求めてしまい不幸な恋愛や搾取しか考えていないカルト宗教や自己啓発セミナーの餌食となってしまう。
 日々の生活は偶然に左右される。けれども、私たちは個人そしてのその理性や意思といったことを幼い頃から意識させられる環境にあり、結果を出せなかった場合、その個人の能力や判断を問われる。しかし、人生は運による結果も大きい。例えば、裕福あるいは貧困の環境で育つこと、大人たちの愛情を注がれた環境で育つのとそうではなかったことは、個人の能力や判断とは全く関係のない領域である。だから、孤独である結果の責任を自身にすべて押し付ける必要はない。そもそも自由意思に基づく恋愛はコミュニケーションと運(偶然)を前提としているから、その恩恵を得られない人々は一定数存在してしまうのである。その少数派に自身が属してしまった場合、卑屈にはならずにそのことを受け入れたほうがよい。受け入れたうえでバランスを取るために、他者との緩い繋がりが必要となってくる。

3. 緩い繋がり

 40代独身者が、強い繋がりを求めてしまうと、カルト宗教や自己啓発セミナーといった詐欺集団が近づいてくる。こういった集団は人は孤独に耐えられないということと、それゆえに信じるものを欲していることを理解しているため、弱っている人に近づいてくる。勿論、そういったものに関わることで心の安定を得られる可能性もあるかもしれないが、経済的損失と周囲の人間との関係の喪失という代償が大きすぎる。恋愛という強い繋がりを求めてしまうことによって生じる問題は先に触れた通りである。
 そこで、私は緩い繋がりを保つことを提案したい。人の生活には強い繋がりだけではなく、緩い繋がりも存在する。それがあるからこそ社会は成り立っている。毎日、出勤途中に買い物をするコンビニの店員さんは「おはようございます」と声をかけてくれる。そして、仕事もまた緩い繋がりで形成されているとも言える。同僚や上司といった存在は友人や家族ではないし、好きとか嫌いとかでもなく普通の存在であろう。そうした特別とは言えない他者ににこやかに挨拶をすることを意識することだけでもよい。特別な関係、強い繋がりをマスメディア等は喧伝するけれども、そうではない関係性もまた大切で、まずそこから始めて、そこから生じる社会性というものを意識したほうが無理がないし、その先にある関係性が生じる可能性が高い。

4.趣味の問題、あるいは酒とスピリチュアルにはご用心!

 孤独な40代独身の人々が、生きがいを求めて趣味に生きるということは大いに考えられる。それ自体は悪いことではない。ただし、自身を偽っていないことが条件となる。体力や好奇心の衰えを見て見ぬふりをして、趣味に費やす時間とお金が極端になってはならない。自身のこれまで趣味に費やしてきた時間とお金を意識して愕然とすることもあるかもしれない。けれど、それを打ち消してはならないのである。日々の生活を彩るための趣味が生きる意味を求めるための苦行になってしまっては本末転倒である。
 無理しない範囲での趣味であれば、どういった趣味でも日々の生活を彩ることができると考えるのであるが、用心したほうがいい趣味が二つある。飲酒とスピリチュアル系である。飲酒は主に男性が、スピリチュアル系は女性が陥る罠であるように感じられる。
 日常的に飲酒をしている人なら理解してもらえると思うのであるが、飲酒をしている間は時間の流れが速く感じられる。これは40代独身の人々の抱える退屈と孤独を緩和させる効果がある。しかし、これはあくまで緩和であって、問題そのものを解決するものではない。いつの間にかそれがすり替わってしまうと陥穽が待ち受けている。飲酒は性行為に似ているところがあって、ある程度の非日常性を維持しておかなければ、その魅力が失われてしまう。その失われた魅力を蘇らせようとその量を増やしたところで、それは自身の身体や生活を蝕んでゆく。飲酒は程よく、そして精神的に不安定なときは飲まないことを心掛けたほうがよい。心が乱れると酒も乱れてしまうということは、40年以上生きてきた人々は理解しているはずである。
 次にスピリチュアル系であるが、これが問題なのは、何となくお洒落で、日常ではなくその先にあるものを意識させながら、いわゆる宗教まではいかないという感覚が迷える40代独身女性に近づいてくるのである。洗練されているように見えて(実際はそうではないことが多いが)高次な世界を志向するというスタイルは自己を満足させてくれるように感じられるからである。宗教まではいかないと書いたが、スピリチュアルとは霊的なという意味であるから、宗教と密接な関係にある。そして、実際にスピリチュアル系から新興宗教や自己啓発(あるいはニューエイジ系)に流れてゆく人々もいる。だがこれは先にも述べたように失うものが多すぎる。そもそも20代のサブカル男女であれば、おしゃれな私というセルフイメージのための日々というのはそれなりに意味があるかもしれないが、40代の男女がそれを志向するのは無理があるからやめたほうがよい。

5. 40代独身者にほどほどの幸あれ(信仰と孤独死を処方箋にしなかった理由)

 この論考は、全体的に宗教に関して批判的であるという印象を受けるかもしれない。けれども人間は本質的に宗教的な存在であると私は考えている。男女が運命的に出会い結ばれ子に恵まれ仲睦まじく過ごし穏やかな老後を迎えるといった、あるいは努力し高度な知識を身に着け社会的地位のある組織に属し安定した収入を得るという考えも、思想であり信仰である。生きる意味の不在や孤独に対する処方箋としては宗教あるいは信仰が一番効果的ではあるとは思う。だが、神は遠くにあり、共同体の力が弱まり、価値が相対的になっている現代社会に適用するのは無理があるし、適用しようとすると暴力が生じてしまう。冒頭に結婚及び恋愛を諦めると書いたとき続けて孤独死を受け入れると書こうとも思ったのであるが、そうしなかったのは、やはり人は孤独には耐えられないということと、孤独に耐えるには信仰が必要であると考えたからである。
 結局、私が書いてきたことを要約すると、極端な行動は取らずに適度なコミュニケーションを維持することとなると思う。解決にはなっていないかもしれないが、解決を求めて彷徨うことは更なる不幸を呼び寄せてしまうと考えるからである。40代独身者がこれではあまりに辛すぎると感じるのではなく、それなりに日々を生きていると感じられることができればと思う。そして、この論考は勿論私自身にも向けられたものであることは言うまでもない。最後に一言。40代独身者にほどほどの幸あれ。

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