あなたは悪くないんだけど、残念なことに降りかかる不幸は、あなた自身が受け止めなければいけない

非常に仏教的な感覚だけど。そう言うもんなんだろうって思っている。

努力しなかった人、犯罪に走った人、嫌われた人。

みんな本当にそれをしたくてそうしたわけではない。もちろん、自分の要因もあるだろうけど、時代や、生まれや、環境や、いろいろな要因があって、やむなくそういう結果になってしまったのかもしれない。

資本主義社会である以上、格差は存在し、裕福な人がいれば、必ずそうでない人はいる。

公正世界仮説のまやかし

公正世界仮説というものがある。

これは「正しい行いには必ず正しい結果が返ってくる」という考え方だ。

「努力は裏切らない」「今頑張っておけば必ず報われる」という考えの背後にあるものと言えるだろう。

僕たちは、この公正世界仮説と言うものが大好きだ。

理由は二つある。

一つは、今を頑張る活力になるからだ。

仮に「どんなに努力しても、理不尽な不幸に見舞われてしまう」と言う事実を直視したら僕たちは絶望してしまう。

もう一つは、他人の不幸を背負い込まないで済むことだ。

他人が社会の構造により、不幸に追いやられても、「彼は努力が足りなかった。自己責任だ」と意味づけを行うことで、余計なことを考えなくて済む

また、学校教育の現場でもこの公正世界仮説をベースに教育が行われる。

結果、大人になるころには僕たちに「苦労は報われる」「努力は裏切らない」「不幸なのはその人が怠けていたからだ」と言う価値観のインストールが完了する。

社会はそんな単純じゃない事実

だが、不幸なことにこの公正世界仮説とは一種のバイアス(偏見)に過ぎない。

考えてみればわかる話だが、長生きがしたいために健康に気を遣っていたとしても、ガンで死ぬ可能性はゼロにはならない。また、交通事故で亡くなってしまう可能性もある。一方で、不摂生をしていても、健康診断に引っかからず、長寿をまっとうする人もいる。

就職の話で言うと、バブル世代と就職氷河期世代の差異がいい例だろう。

僕たちがどんなに努力をしても、僕たちの生きる世界は公正ではない。

不幸は自己責任と言う言葉では片付けられない

努力は報われるとは限らないし、あなたが不幸なのはあなたが悪いとは限らない。

人が不幸になると、「それ見たことか」と自己責任の石を投げてもどうにもならないのかもしれない。

努力をしても物事には勝ち負けが存在する以上、絶対に負ける人は出てくる。

それを「結果が出ない努力は努力ではない」と言うのはあまりにその人に対して酷い仕打ちではないだろうか。

本当にその人のことを思うので”あれば”。

まず「あなたは悪くない。努力は報われるとは限らないのだから」と伝える方が良いのではないだろうか。

ただ、それでも不幸はどうにかしなきゃいけない

とはいえ、身に降りかかった不幸は自分でなんとかしなくてはいけない。

それはあなたの行いと関係がないかもしれない。

だとしても、他の誰でもない、あなた自身がその不幸を対処しなければならない。

なぜなら世界は公正ではないからだ。

ただ、それでもあなたは悪くない。

大事なのは犯人探しより、今この状況をどうするかだ。

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