【雑記】他人のことは都合よく見える

あつ森のアップデートのお陰で、日ごろの忙しさやしんどさが吹き飛んでおりますが、同じタイミングで別の話が来たので、そちらを少々。

私の今夏までやっていた前職を、やる気満々、勤務先の組織文化にも馴染んでる人に引き継いだのですが。
その方が、まさにこれからという段階で、ドタキャンに近い形で休職になってしまわれ、周囲の人たち(元同僚や上司)がもう総力戦で対応している状態だということで。
ちょっとした再引継ぎなのがありました。

私がそのプロジェクトを2~3年、一人で回してた時は、「もう無理!」とリング上でギブアップを叫んでたにもかかわらず、誰一人(上司陣)はタオルを投げようとしなかった。

結局、何とか耐えたけど。
去年からの自粛、在宅中心生活での自問自答や、知らなかった世界に触れたことで、自ら出ていくという形を取ったわけでして。

あの時、根性なしだとか、甘えた考えで働いてるだとか、そういう批評はされたので、自分でも「降りる」ことが「社会人として良いのか」という葛藤が続いたし、今もうっかりするとその沼にハマりそうになるが。

良かったんだ。抜けられて。

こんな経験、前にもしたなぁ~と。デジャブの源を探れば。
新入社員の時代から、そういうことが続いていた。

「一人でこなして当たり前、出来ないのは能力がないお前が悪い」ぐらいの叱咤が続いて、体調不良で医師から休みの進言を貰えた時。
2週間の休み後に戻ったら、「1人でこなせる」と言われていた私の業務は、その業務専属として3人がかりで回されていて。その3人とも半年以内に鬱や突発性難聴などで、退職していったことがあった。

業務ローテで仕事を引き継いだら、周囲からは簡単だと思われていたのに、後任者が半年以内に辞めていくことはよくあった。

人の評価など、基準にするには曖昧過ぎる

それは私自身にも言えることで。

うまく行かない時が続いたり、妬みも含んだ負のループにハマった時などは、明るく楽しく仕事をされている人に対して「育った環境が良かったからだ」とドロドロした感情で見たこともある。
だが、そういう人と不意に話したときに、意外に苦学生だったり、心の傷をから快復しようと藻掻いておられる途中だったり。
自分の勝手な思い込みフィルターに愕然とした。

そういう繰り返しの中で。
一つは、自分の中で他人がキラキラして見えた時は、自分で自分を「癒したり、楽しませたり、喜ばせる」ことが不足している時、だと把握した。

もう一つは、体調がおかしくなった時は、素直に体に従うことにした。
体調不良は、自分の中のサーモスタットが切れそうになっているとき=緊急事態の前触れ。
誰が何と言おうと、そのサーモスタット異常事態に気づいて対応できるのは自分自身しかいない。

そしてこれからの自分の肝に銘じたい。
自分自身にも他人にも、「これは出来て当たり前」なんて言葉も態度も出しちゃいかん。
当たり前に見えているその陰には、多大な苦労と犠牲が隠れている。
それをわからずに、「当たり前」で括ってはいけないのだ。

自戒を込めて。


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