見出し画像

「全員が黙る社会」の必然的帰結

よく、「結果出した人間にしか意見されたくない」ということを言う人がいます。
もう少し噛み砕いて言うと、「お前に何がわかる。私のことなんか何も知らないだろ。目に見える価値を私に提示してみせろ。」ということだと思います。
まぁ、個人的な感覚としてはたぶん多くの人が持ってると思います。

しかし、僕はこれに少し違和感があって。

たぶんこのような意見が強くなるのは、あまりにも繋がりが平易になった社会性によるものだと思うのですが、それが根本的に正しいのならば、すべての人が黙ることが必然的になると思うのですよね。

どういうことかというと、「お前に何がわかる」というスタンスに対しては、「分かりません」が正解なんですよね。
というか、そもそも人は他人のことを理解するのは絶対的に不可能なので、、

そこで他人の評価として用いられるのが、いわゆる結果と呼ばれる何らかの値札だと思うんですね。
「私はこんなすごいことをやってきた。お前はどうなの?」みたいな。
でも、これって所詮何らかの価値基準を共有してる前提の場合において成り立つわけです。
逆説的に、相手が知らなければ何も成り立たないわけです。

基本的に他人を本質的に理解するというのは不可能なので、そういう価値基準に頼るというのを個人として持ってるのは肯定されるべきだと思うのです。
しかし、それが真であるとなるならば、結局のところ排他的にならざるを得ないと思うのです。

つまり、価値基準が共有されてない他人に対して自己の価値基準を強制することはできないですし、その価値基準に満たない人間の意見が肯定されないのであれば、すべての人が持つ個人的価値基準は相互に排他的になる。
したがって、「全員が黙る」というのが最も正しいように思えてしまうわけです。

なんだがうまくまとまりませんが、おそらく結論として「多様な個人の価値基準を全員が他人に当てはめるようになると、全員が黙るのが最もよい社会」になってしまうというのは正しいような気がしています。

完全に論証の詰めが甘いですが、この辺は肯定否定関わらず、話のわかる人と話してみたいです。

こういう帰結にはなりましたが、個人的には「全員が黙る社会」は嫌です。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?