駄猫のこと。
グリーフケアの一環として「気持ちを書き出してみる」というのがあるらしい。
それ自体の効能はよくわからないけど、いろいろ書き残しておく必要がある気がしたので書いておく。
大半は自分だけのための内容になるけど、誰かの参考になるかもしれない。
15年か16年飼っていた猫が死んだ。腎臓の機能不全。駄猫駄猫と呼んであまり猫っかわいがりはしていなかったつもりだけど、周囲から見たら溺愛していたようにも見えていたかもしれない。どうだったかはもう分からない。
それまで飼っていた実家からの引き取り猫が老衰で亡くなって割とすぐに保護施設から引き取った猫だった。
昔の書類をひっくり返したら、前の猫が死んでからたったの10日ほどで保護施設に行ったらしい。親は随分早く次のを迎えるんだなと内心呆れていた、と後で聞かされた。自分もそう思う。
保護施設は関東某所の山の中にあった。ケージの向こう側に10数匹の子猫がいて、退屈しきった感じで一斉に「一緒に遊ぼう」と言わんばかりに突進してきた。その中で、こちらに尻を向け顔も合わせない様子で座ったっきりの、ひときわ成長しすぎた感じの一匹がいた。ケージから出して抱きかかえると満足したように両手で肩を踏み踏みされたので、ではすいませんがこいつにしますと施設の人に言った。いいんですか、という内容の事を言われた気がする。子猫というには育ちすぎていて、この手の施設での売れ筋ではなかったからだろう。福井かどこかの路上で拾われ、保健所経由でここに来たらしい。一緒に拾われたきょうだいは美猫だったので早々に貰われていったそうだ。そんなこと言うなよとも思ったけど、後に実家でさんざん「雑巾猫」と言われることになるその顔は三毛猫というには黒と茶色の比率が多すぎ、白の比率が少なすぎた。
ちなみに家に迎えてからは、踏み踏みをぱったりやらなくなった。あれはあれなりの一世一代のアピールだったのかもしれない。
猫自体に値段はついていなかったけど、去勢手術代と3種混合ワクチン接種代とで2万5000円を施設に支払った。
これ以降、ずっと餌代とトイレ用品代しかかからない日々が長く続いたのは今考えるととてもありがたかった。
自分がリーマンショックの余波を喰らって失職して転職して引っ越す時には、社宅に入ることになりペットは不可だったので何年か実家に預けた。たまに帰省すると半日くらい「誰だこいつ」って顔をされて、帰るころには「もう帰るのか」と言いたげな顔になってる、という関係がしばらく続いた。着任前に「猫は飼えますか」と聞いたのが職場で話題になっていたらしく、ずいぶん長いこと「猫は元気か」とからかわれた。転任に伴って帰京することになり、1日で引っ越し先を探す羽目になったとき、サインをする直前にふと実家に置き去りだった駄猫のことを思い出して「ところでここ猫OKですか」と不動産屋に聞いたら「いやダメです」と言われたのでそれまで作った書類を全部ひっくり返してもう一度物件探しからやって、実家から引き取ってきた。それ以来ずっと一緒にいたから、通しで言うと14年くらいは一緒にいただろうか。こう考えると長い付き合いだった。
猫らしく高いところから人間を見下すのが好きだった。分不相応に大きめの冷蔵庫を使っていた時は、冷蔵庫の上がお気に入りの場所だった。食器棚の上も好きだった。カーテンレールの上で危なっかしくバランスを取っているのを何度か見たことがある。その一方でいわゆる猫グッズにはあまり関心を持たなかった。
自分の仕事が今も昔もだいたいいつも忙しく、帰宅するのは22時23時が普通だった。だから構ってやれるのは夜だけだった。構うといっても、猫じゃらし的なものはあまり関心を持たない一方で、アームバンドや輪ゴムを自分で放り投げて遊ぶのが好きだったのであまり手はかからなかった。
休日にひたすら寝ている時は、ずっと布団の中で一緒に眠った。出張で数日家を離れる時は、ドーナツ型の自動給餌機(餌をセットしたポケットが順に開くタイプ)とペットボトルの水が少しづつトレイに出てくる皿をセットしておけば、それで機嫌よく留守番していた。長い留守の後に帰宅するとだいたい布団から起き出してきてうるさそうに周囲をぐるぐる回り、満足するとまた布団に戻った。出かける時は玄関まで見送りに来るときもあったし、寒い日の朝などは布団から出てこようとしない時も珍しくなかった。
箪笥の引き出しから服を無限に掘り出して、空いたスペースに収まるのが好きだった。油断するとすぐ押し入れの奥に潜り込んでしまうので、襖は開けておかないよう気をつけていた。
むらっ気があって、食欲のないときはあまり食べようとしなかった。食事にわがままを言わせるのは自分の流儀でもなかったので、その時々に一番安いドライフードを買っていた。何度か試した缶詰のウェットフードにはほとんど口をつけず、「ちゅーる」が流行ったころに試してみたが全く食べようとしなかった。人間の食事にも興味がない様子で、机の上に食べ残しがあっても盗み食いをすることはなかった。ただ少しでも寒くなると布団の中に潜り込んで足の間や脇の下で喉を鳴らしながら寝るのがお気に入りだった。あまり外に出ようという様子も見せなかったが、アパートのベランダには出たがった。隣の家のスペースまで遠征しそこでゴロンと横になるのも好きだった。トラブルにならなくてよかったと思う。
引き取った直後から目の調子が良くなくて、だいたいいつも目やにを溜めていた。拭っても拭っても、目やには翌日には元通りだった。一度猫医者に診せたことはあったけど、目薬をやってもやらなくても、目やにが出るのは変わらなかった。ずっとくしゃみをして鼻水をあたりかまわず撒き散らかしていたので、壁のあちこちに茶色いシミができた。段ボールの爪とぎを置いておいても、壁紙をボリボリ剥がすのが大好きだった。風呂場の溜水が好きで、シャワー後の風呂場に入って床をぴちゃぴちゃやっていた。気が向くとところかまわず毛玉を吐いて、これは毛玉ケアのキャットフードにしてもあまり変わらなかった。
鳴き声がむやみに大きく、その割に全く可愛くない鳴き方だった。だいたいいいつも「ぎゃあ」としか形容しようのない鳴き方をした。コロナ禍でリモート会議をするときなど、何度か参加してきた。他の家の猫がもっと可愛く「みゃー」とか鳴くとのを聞くと、なんとも恥ずかしい思いがした。
動物の出る番組を熱心に見るようなことは無かった代わりに、変なタイミングでテレビ画面を凝視していることがあった。何が良かったのか、今でもよくわからない。何も映っていない画面をじっと見ていることもあった。
時々は窓から外をじっと見ていることがあった。ベランダに鳥が止まったときはよくキャキャキャキャキャと威嚇の声を出していた。最後の引っ越し先ではベランダに面している窓と道路の真上にある窓があったので、道路下の人間を見ていることもあった。外に出たがらない代わりに、窓は好きだった。
都内の夏は過酷になる一方だったので、夏はだいたいエアコンを弱めにつけていた。冬はどうせ布団の中に潜るのだからと、暖房をつけることはほとんどなかった。たまに底冷えに耐えかねてエアコンをつけると目をまん丸くして「こんな快適な状態は知りません」という顔つきをしてみせるのが常だった。
ノートパソコンの角っこに口角をこすりつけるのが好きだった。角張ったところには片っ端から口角をゴリゴリこすりつけていた。
トイレでうんこをした後に部屋の隅から隅まで走り回るのがほぼ毎日の日課だった。これはどこの猫もだいたいそうらしい。
気が付くと10歳をとうに過ぎていたので、そろそろ食事にも気を使わないとと思い、これまでの数倍の値段になるのを承知でヒルズサイエンスのシニア食に切り替えた。猫の飼い方についての本を買い直して、水の置き位置をすこしだけ高いところにして首をかがめなくても飲みやすくした。自動給餌機をAmazonで買って、少量づつ1日に何回も給餌される設定にした。
同居人が増えるのを機に10年ぶりの引っ越しをして、新しい家に猫と入った。前の時もそうだったが、最初の1日2日は風呂場と下駄箱の下に引きこもって出てこようとしなかった。家には割とすぐ慣れてくれたが、その後やってきた同居人とは1カ月くらい冷戦状態が続いた。同居人は猫の扱いに慣れていたので、気が付くと彼の指先で四六時中撫でられながら、今まで見たこともないような甘え方をするようになっていた。曰く、自分が居る時と同居人だけの時とでは態度が全く違うのだそうだ。どうやら自分を「この家では2番目」と認識するようになったらしい。
3人で川の字になって昼寝をしながら、こういうのも悪くないな、と思ったこともあった。
初めて、家族ができた、と思った。
今年の7月のある日、急に動きが鈍くなり、あからさまに具合悪そうな顔つきで一か所にうずくまるようになった。同居人が最初に異変に気付いた。普段から仏頂面だった顔がもっと不快そうになっていたので近所の猫医者をネットで調べ、土日も普通に診察してくれそうなところへ猫キャリーに入れて向かった。この時は珍しくも夏バテだろうか、今年の夏は暑いからなあ、でも日中空調つけておいてるんだけどなあ、くらいに軽く考えていた。
腎臓の値が医者が目を剥くほど悪くなっていたので、その日から抗生物質とステロイド投薬、週1回の検査と点滴でとにかく腎臓の値を下げることに注力することになった。薬をどうやって飲ませたらいいでしょう。オブラートに包んで喉の奥に押し込んでください。ドラッグストアで昔ながらの円形オブラートを買って、粉薬を包んで毎日2回朝晩喉に押し込むのが日課になった。もちろん駄猫は嫌がったが、喉に放り込んで口を閉じさせ喉元が「ごくっ」という動きをするまでそのままにしておくのにはすぐ慣れた。
そのころからほとんど食事を摂らなくなり、ほんの1〜2週間で見る影もなくがりがりにやせ細った。二回目の通院の時には食べさせないとダメですと宣告され強制給餌のやり方を教わり、シリンジを支給してもらった。
同居人に抱きかかえてもらい口をこじ開け、お値段のバカ高い腎臓処方食をシリンジに入れて少しづつ喉の奥に流し込むのが日課になった。こんな苦痛と屈辱は生まれて初めてですという声でさんざん泣かれ、主に同居人が体を噛まれる毎日だったが腎臓の値は少しだけよくなった。
布団の上で寝るのが常だったが、床で寝るようになって鞄がいくつか涎と猫っ毛まみれになった。これまでにも何度か実家で見てきたのと同じように、死に際の猫は暗がりに潜みたがるようになる、それだと思った。
2週間ほど強制給餌を続けた頃、唇の片方に黒い塊ができているのに気付いた。下の牙が当たると血が染み出ていて、餌をいつまでも自分で食べようとしなくなったのはこれのせいかと思い医者に言うと顔色が変わり、組織サンプルをすぐに採取されその場で顕微鏡チェックをされた。悪性黒色腫だという。メラノーマともいうそれは要するにガンで、その場で1日入院し手術して取り払うことになった。多少ごっそり顔の肉を落とすことになるからそのつもりでいて欲しい、でないとあっという間に転移するので、という説明を受けながら
「いや、ところでそれは幾らくらいかかるのですか」と頭の隅で考えていた。
点滴をするたびに1日3万円。
薬代は1週間分でだいたい2万円。
処方食は1缶2食分程度の量で250円。
手術代は10万円以上した。
1日明けて引き取った時には、髭が片方丸ごと無くなっていた。不細工な顔がもっとアンバランスになったけど、強制給餌のたびに血が出るようなことはなくなった。抜糸をするまでは生きていて欲しかったけど、QoLの向上にはなったと信じたい。
駄猫を医者に連れて行くと、だいたいいつも待合室は大混雑で、貴重な土日のどちらかが半日以上潰れるようになった。
行くたびに金はかかり、時間も取られる。これまで放置していたツケが一気に回ってきた、そんな風に思った。点滴以上の高度医療は望みません、と宣言していたので、ではステロイド投与で様子を見ましょう、という方針は初めから固めていた。その気になれば透析治療で恒常的に腎臓の値を下げ続ける措置も、細胞再生なんとかの治療法を試すとかもできたかもしれないけど、それは自分の望むところではなかった。駄猫もそれは望まなかったはず。
点滴で入院から戻ってくるたびに痩せ方がひどくなり、下半身もふらつくようになってきた。それでも2人の布団を往復しながらお気に入りの場所でくつろいでいる様子を見るとほっとした。毎日の強制給餌に人間側は慣れてきたけど、食自体はどんどん細くなっていき、かなりきめの細かいパテ状の処方食でさえ露骨に嫌がるようになったので、買っておいた腎臓ケア版のちゅーるをシリンジで口の中に少しづつ流し込んだ。それでも1本丸ごとは食べさせられなかった。
トイレはボックス型で上に穴のあるタイプを長年使っていたけど、飛び上がって穴から中に入る動きがしんどそうだという同居人からの指摘もあって引っ越しの時に買っておいた折りたたみ式の浅い箱型トイレに切り替えた。一度はちゃんと使ってくれたが、二度目からは絶妙にはみ出したところでおしっこがだだ漏れになった。近所を夜に徘徊して段ボール箱を何個か拾わせてもらった。同居人にはペットシーツを買ってきてもらった。
9月の最後の週、これまでにないほど腎臓の値が悪化したので何日かかるか分からないという条件で入院することになった。エリザベスカラーを嵌められながら、いつものように不愉快そうな目つきでこちらを見たのが、生気のある視線の最後の記憶になった。
月曜の夜に医者から電話がかかってきたときはてっきり死んだものと思ったが、腎臓の値が下がったという連絡だった。定時後とはいえ本来はとても帰宅できる時刻ではなかったが半ば強引に退社し、夜遅くまで開けてくれていた医者から猫を引き取った。帰宅してベッドに上げてやると、満足そうに定位置に移動した。風呂場の残り水を舐めたがるのだけは変わらなかったけど、でももう風呂場の段差を乗り越えるのにも苦労するようになっていた。ベッドから抱き上げるとその場で粗相をした。おしっこがまるで臭わないことに、そのとき気づいた。恐らく腎臓がほとんど機能していない、もうあと何日保つだろう、と思った。
金曜の晩、帰宅するとまだ生きていた。見るからに辛そうな様子だったので、今夜はもう強制給餌もしない、薬もやらないで安静にさせておくと決めた。土曜まで保っても、もう医者には連れて行かない、家で機嫌よく過ごしててもらおう。
夜中、ベッドで添い寝をしていたら起き出して枕元に移動しようとして床にぼとっと落ちた。拾い上げてベッドに戻してやってしばらくしたら、何度か呻き声を上げた後にこと切れた。あれはこちらが寝ていたのを起こしたのだろうか。今となってはよくわからない。とにかく看取ることができてよかった。帰宅した時に冷たくなった姿と対面、というのをここしばらくずっと覚悟していた。
同居人は翌日仕事だったので、後のことは一人でやった。拾ってきた段ボールの1つが棺桶がわりになった。ペット葬儀社をネットで探して、近所であること、お骨を引き取って霊園に収めるところまで代行してくれること、どさくさに紛れて変な儀礼に余計な費用をかけさせないところ。午後には火葬設備を備えたワンボックスカーがやってきて、路上で即席のお葬式をしてくれた。たまたま通りかかった人ごめんなさい、すぐ終わりますので。手を合わせながらそんなことを考えていた。棺桶には近所のスーパーで買ってきた切花を散らして一緒に入れた。多くの植物は猫には有害だと聞くけど、思えば駄猫は観葉植物の端っこを噛むのも好きだった。
葬儀と納骨一式でだいたい25000円。迎えた時とほぼ同額なのは偶然だろう。
そのあとは昼間から酒を呷って、夜まで眠った。帰宅した同居人からは、玄関の鍵が開けっぱなしだったと言われた。
腎臓ケアのキャットフードが大量に余ったので、ネットで調べた保護団体に送った。拾った段ボール箱の残りが梱包材として役立った。ペットキャリーとトイレと自動給餌器を洗って、段ボールの爪とぎと飲みかけの薬を処分した。これでもう、することは無くなってしまった。
一人でいると、目線でもういない何かを追ってしまう。やけに家が静かに思われる。水の交換、トイレ掃除、自動給餌器の中身チェック、ずっとやっていたことが突然無くなると、なんとも落ち着かない気持ちになる。
特に気の利いたオチはない。人生はこれからも続く。
でも長い一人暮らしが駄猫の存在でずいぶん潤ったこと、長くはなかったけど3人暮らしは想像していなかったほど楽しかったこと、それは忘れないでいたい。
駄猫がどこに行ったかは知らないけど、向こうに良い布団とモフモフしてくれる手があればいいと思う。自分のことは猫らしく3日で忘れてもらって構わない。
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