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僕らはいつだって、不平等で不確かな夜を越えて「茉莉花」



数週間前、知人の勧めで香水を買った。 ZARAが発売しているELEGANTLY TOKYOのロールタイプ。特定の匂いに惚れ込んだりしない僕が、直感的に「これだ」と決めて会計へ向かった。珍しいと知人は瞳を丸くして僕の背を追ったに違いない。まさしく衝動買い。この胸騒ぎの正体をじっくり考察してみると、香水が「茉莉花(アラビアンジャスミン)」のエッセンスを含んでいることに由来した事実に気づき、ちょっぴり可笑しかった。いつから僕の鼻腔は、過去の情景によってひん曲げられてしまったのだろうか。呆れるほどの単純さ。全く以て情けなく、清々しいほどに今も僕は僕を生きているのだと知った。

僕にとって、茉莉花はいったいどんな位置にいるのだろうか。 わかりやすいところで言えば、ジャスミン茶は好きで頻繁に飲む。もっと言えば、飲み屋で酔いが回り出すと無意識にジャスミンハイばかりを頼んだりする。鼻に抜ける爽やかな風味が、「そんなに飲んで、馬鹿じゃないの」と酩酊気味の頬を覚ましてくれる。僕を叱る人も減った世界で、その冷たい口調は貴重なものだった。「長すぎた春」「清浄無垢」なんて花言葉も、小粋で魅力がある。あとは、誕生花としては十月に分類されるところも気に入っている。季節を辿れば秋と冬の狭間が一番好きだし、思えばいつだって恋をするのは十月だった。それから、夜に花を咲かすところとか、神からの贈り物と形容されてしまうのも好きだ。勿論、白花の薄く儚い容姿も愛らしくて美しい。つまり、あの日から僕は茉莉花に首っ丈で、これから先何があろうと最も愛する存在であると断言できよう。恥ずかしながら、茉莉花は僕にとって「最愛」という位置づけにあたるのだ。

それでは、僕にとって最愛はどういう定義や効力を持つのだろうか。こちらの問いにはある程度答えが出ている。白石一文著『翼』(鉄筆文庫)の一節「たとえ恋愛や結婚に結びつかなくても、君がずっとそばにいてくれるのなら、それでもいいんじゃないか」。これが僕にとっての最愛の定義の大部分を捉えていた。愛の意図が錯綜し、関係性に解れが生じようと、対象へ抱える情が最愛か否かについてはさほど影響しない。その程度で狂ってしまうものを僕は怖くて「最も愛せ」たりはしないし、そこまで阿保に化けたりもできない。巷で平べったいはずの愛を深く深く掘り続け、穴に嵌って抜けられない状態を最愛と呼称する連中にはどうにも悪寒が走る。価値基準が合わないだけだから、別に悪いとは思わない。ただ、そうやって育てた花に意味があるのか、僕にはさっぱりわからない。

茉莉花という最愛と出逢い、かれこれ十二年は経つ。常に肌身離さず抱えていたわけでも、ほかの花の美しさに目移りしなかったわけでもない。季節が移ろえば気温も上下し、風が吹けば心も揺れた。そうやって様々な色を重ね、大きな花束を創作していく過程で、いつも中心に、もしくは最奥に茉莉花があったのは紛れもない真実だった。花が朽ちて、美しさを保てなくなっても、茉莉花の香りが僕を包むのなら、これから先、何も心配は要らないと確信をもっている。茉莉花を抱えた僕が、今でも一番自分らしくて気に入っている。


そんな冗談と素直が入り混じった文章を、茉莉花の香水を纏った身体で書いている。「何訳の分からないこと言ってるのよ」と肩を叩かれ、最愛という語感の絶望に叩き起こされる。日常は退屈で、僕の苦手な優しさが蔓延っている。だから、せめて僕が死んだら、棺桶には茉莉花を敷き詰めて欲しい。身体が沈んで、もう二度と戻れないように。白く柔らかな花肌の上で、嘘偽りなく眠れるように。

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