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僕らはいつだって、不平等で不確かな夜を越えて 「幸せが溢れたら」

先日、僕の「半分」とも呼べる人が死んだ。


「半分」なんて言い方をし出したのは彼女の方だったけれど、確かに適切な名称もなかった僕らの関係に「半分」は悪くない表現だった。その朝、僕は「半分」を失って、いつもより身体が軽くなって、いつもより気分が重くなった。乳白色に包まれる爽やかな街の風に、始発電車の軋轢が痛いような朝だったことをよく覚えている。



「私は貴方を好きにならないと覚悟を決めて会いに来ました」


彼女は開口一番、出逢いたての僕にそんなことを言った。未明の夜、寒波吹き触れる冬のこと。彼女の僕に対する発言や眼差しは失礼だったし、迷惑だったし、鬱陶しかったし、いつだって演出的だった。僕は彼女の映画みたいな台詞や仕草に惚れ込んでいたけれど、打算的で人間味ある恋愛上手な側面は正直苦手だった。恋の話をする度に僕は彼女を憐れに思った。当時僕には薔薇のように美しい恋人がいて、彼女が少しでも僕の内側へ潜り込もうとすると僕は彼女を拒絶した。好きにならないと覚悟を決めた女には思えなかった。嘘つきな女だった。


それから僕が彼女とは全く関係しない理由で薔薇に別れを告げ、彼女にも二ヶ月時間がほしいと言った。僕は薔薇との日々を想い耽る為だけに時間を使いたかったし、そういう意味では好奇心剥き出しの彼女は迷惑以外の何物でもなかった。僕はもう恋なんてどうだってよかった。作家になりたい夢を追う為だけに薔薇と離れて生きる道を選んだというのに、彼女はまた僕に面倒を押し付けようとした。二十一年間培った博愛主義だけが僕の思考を停止させた。僕も大概な人間だったのだろう。


「私も薔薇がいい。枯れない薔薇がいい」


僕が唯一彼女に惹かれていたのは、彼女が持つ哲学と経験だった。静寂の夜道に鳴る歪な不協和に顔を歪めて耳を塞ぐ横顔だけは美しかった。対話ができること。同じ階層で話が伝わること。それが僕にとってどれだけ重要なことかは言わずもがなだった。僕は彼女に「長い付き合いになりそうだ」と言って、「未明」という散文を贈った。彼女は泣いて、しかし苦しんで、「貴方の傍に居られるのは嬉しいけれど、だったら私も薔薇がいい。枯れない薔薇がいい」と言った。僕の最期の博愛が咲いた瞬間だった。僕らはわかりやすい関係に帰結し、僕は彼女に薔薇のプリザープドフラワーを贈った。特殊加工の施された枯れない花。誰かと重ねられることを嫌う彼女の為に、色は藍色を選んだ。


「運命の人は二人いるんです」


「運命の人は人生で二人いて、一人目は自分に愛を教えてくれる人、二人目は一生涯を共にできる人。貴方は私にとって二人目だけれど、私は貴方にとって一人目ですね」。彼女は物悲しい目をした運命論者だった。僕は確かに彼女へ仄かな運命を感じていた。吸っている煙草の銘柄が同じだったり、僕のバイブルとも呼べる小説を彼女も読んでいたり、サブスクで作成したプレイリストを覗き合うとほとんど同じ曲ばかりで構成されていたり、僕が何を言おうとしているかわかって二、三手先の言葉を未来を読んだみたいに話したり。しかし僕らの運命は確実にずれていて、その小さな罅が後の結末を生んだような気もする。


「貴方は私と同じ死にたい人なのに、忘れているだけです」


聡明な彼女は僕が忘れていた過去を全て掘り返して、僕に共に死のうと誓った。作家になれるまでは死んで堪るかと思っていた僕も、彼女とならば死んでもいい気がしてしまった。それだけ彼女は僕の弱い部分を刺激するのが上手だったし、自分にそっくりな彼女が泣いていると僕も隣で泣いてしまうほど愚かなくらいに僕らは似ていた。


「こんなところで挫けないで。貴方は作家になれる」


僕が新人賞の最終選考で落選した夜、彼女に力強く未来を宣告された。僕なんかよりもずっと、僕が作家になれることを信じているような瞳だった。その晩、彼女は僕に別れを告げた。最初から最後までよくわからない女だという印象を残して、彼女は僕の前から姿を消した。直後、僕は溶連菌になって喉を真っ白に染めたけれど、声も出ないぐらい喉が痛んだおかげで彼女に余計なことを言わずに済んだと今では思う。


それから二年間もの間、彼女から突然来る連絡に頭を悩まされた。僕を突き放した相手が、越えられない夜があるからといって泣きつく度に、僕がどんな状況にいるかもお構いなしで、私が大切でしょうみたいな顔をされてほとほとうんざりだった。茉莉花に夢を語ったり、紫陽花に愛を呟いていても、藍の薔薇は呪縛のように背中へ張り付いていた。「そんなに苦しいなら、いっそ死んでくれ。もう僕を巻き込まないでくれ」恋人でもない、親友でもない、家族でもない僕を土壇場、瀬戸際、最終兵器として頼り、「神様」なんて呼称する彼女が憎くて仕方なかった。会いたいと言われて、動き出すといきなり音信不通になり、彼氏に助けて貰ったからもう平気という態度。僕は利用されているんだろうなとわかった。都合のいい人間でしかないと思い、彼女への私的な感情を失った。


僕は苛立ちや焦燥を全て作品にして逃げた。彼女のことなど金輪際記憶の隅から抹消してしまえと知人にも諭されたが、自分の「半分」をどうすれば忘れられるのだろうかと問い返したくなった。自分をいくら嫌おうと、自分を捨てることができないのと同じで、僕は永遠に彼女の呪縛を背負っていくものだと覚悟をきめていた。そこに愛はなかった。情だってない。あるのはたった一つ、「貴方は作家になれる」という彼女の確信を否定したくない一心だった。


作家にならねばいけない。僕は彼女の死に対する姿勢を敬っていた。その価値観を皆が持てば、この世界はもっと美しく変わるし、彼女だって苦しまずに済む。だから僕は命について作品で描き続けた。自分という人間が誰かを殺す要因に必ずなっている。自殺の正誤性を断定できる者はいない。美学やロマンスではなく、死はいつだってそこにあると。彼女が弱って、薬を飲んで、身体を傷つける度に僕は物語を綴った。間に合わないのは嫌だった。二年も会っていない彼女の為に命を賭けれたのは、きっと僕も同じ悩みを抱えていたからだろう。



「もう貴方を忘れてしまう」


今年の初めに、彼女は自身の抱える疾患が判明した話を僕へ打ち明けた。つまり彼女は日常の中で完全に僕を「忘れている」時間があるらしく、それは彼女が悪いわけではなく、彼女の別に存在する人格が悪かったのだ。しかし、僕はそれを受け入れられなかった。僕が彼女を忘れたことなんて一度もなかったから。そんな葛藤も、全て作品へ紡いだ。そして三月に「雑」という青春自殺小説が完成した。その一週間後に彼女は死んだ。僕を連れてはくれず、彼女は孤独に死んでいったのだ。


未来を約束し合ったわけでも、頻繁に会ったわけでもない。それでも僕は、彼女の訃報にちゃんと涙を流した。生きていて欲しかったわけでも、死んで欲しかったわけでもなかった。僕はただ、彼女の言葉を嘘にしたくなかった。僕が作家になることだけが、嘘つきの彼女を嘘から解放する術だったような気がしていたから。ただ、僕は間に合わなかった。世界は残酷で、陽の当たらない僕らの関係を存在しないものとして扱った。覚悟はしていたけれど、僕は彼女の亡骸に手を合わせることすら赦されなかった。だから一人、花を買って手向けた。藍色の薔薇が飾られたプリザープドフラワーを、彼女の愛した煙草と共に添えた。




僕は眠る彼女を起こして、「君の話を書いたから」とこの文章を読ませてみた。「もう。大袈裟なことばっかり。私は此処でちゃんと生きてるのに、これじゃあノンフィクション日記みたいじゃない。貴方また皆に心配されるわよ」と彼女は笑った。そうだ。僕は物書きだから、こんな嘘も平気に綴れてしまう。しかし、それでいい。僕は永遠に君のことを書こうと思う。君は間違っていない。君の言葉が嘘にならないように、僕は作家になるべきなのだから。


彼女をベッドへ押し戻し、僕は「もう少し書いたら寝るよ」と言って再びパソコンと向き合った。「あんまり無理しないでね」枕に後頭部を預けた彼女の声が僕へ届いた。僕は「ああ」と呟いて新しいファイルを開いた。安らかに眠る彼女を横目に、永すぎる夜にキーボードを弾いた。


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