見出し画像

嘘の素肌「第25話」


 玄関に上がると廊下の電気が付いていた。念の為足音をわざと荒立てつつリビングに踏み入ると、ソファに腰を下ろしながら足の爪にネイルを塗っていた片山かたやまいずみが「おかえりなさい」と静かな声で振り返った。赤紫色のペディキュア。シャネルのヴェルニが、硝子仕様のローテーブル上に鎮座していた。

「ただいま。今夜は夜更かしだね」

「茉莉が帰ってくるの待ってたんだよ」

 ブラトップにハーフパンツ姿という警戒心の欠片もない格好に心臓が何故か鳴った。自宅なのだから、ラフでいることに違和感を覚えるのは可笑しな話だ。きっと、さっきまでの貧乏な女と無意識にいずみを比較し、その高品質な美しさに度肝を抜かれたのだろう。まさしく絵になる女。長い黒髪は金の髪留めによって束ねられ、横顔のさらりとしたフェイスラインを際立たせている。父親が日本と中国のハーフで、母親がロシアと日本のハーフという生粋のクォーター。生まれに由来した精悍な目鼻立ちに加え、ファッション誌でのモデル経験もある彼女のスタイルは抜群で、昨年はグラビア写真集も出版し、その売れ行きは既に五万部を超えていた。他の追随を許さない、完璧な造形美。写真集の売り文句にもあった《神様は彼女を愛しすぎた。》という言葉に違わぬ、高身長と豊満なバスト。僕は部屋の中央に設置されたソファの背面へと回り、彼女の首元に鼻先を寄せ、頸動脈から耳裏にかけてを弄るように舐めた。「くすぐったい。ネイルずれちゃうって」笑いながら首を横に振ったいずみに雄っぽいキスをすれば、「んっ」と雌っぽい零声が返ってきた。

 その刹那、アダルティックな雰囲気を壊すような笑い声が僕らの邪魔をした。眼前に設置された100インチの大型液晶テレビには、深夜のバラエティ番組が映し出されている。アイドル養成番組のMCを務める中堅芸人を睨んだいずみが、「私ねえ、この人に口説かれたことある」と呟く。愛妻家で有名な、印象の良い芸人だった。僕が「それで?」と訊ねれば、「もちろんお断り。私、顔が良い人しか好きじゃないから」と答える。「じゃあ僕は」その質問に、いずみは短く「大好き」と返し、欲情が限界値を越えた僕は力強くいずみの胸を揉みしだいた。彼女はポリッシュをボトルへ戻し、僕の首元へ腕を回し、そのまま身体をソファへと引きずり込んだ。ソファに寝そべった僕の股に顔を突っ込み、冴えない女がさっきまで咥えていたとはつゆ知らず、唾液が残ったままであろうペニスをいずみは躊躇なく舐め始める。ものの数分で僕はいずみの口腔で達した。いずみは当たり前のように精液を一飲みして、自分の仕草に酔いしれる風な視線遣いで笑った。美人で、金があって、余裕があって、フェラチオが上手い。これ以上ないパトロンの女の部屋に、僕は一年前から居候していた。


 オーラルのみで情事を済ませた僕はシャワーを浴びに行く直前、飲み足りないからこれから二人で晩酌をしようといずみに提案した。濡髪のまま脱衣所からダイニングへ戻ると、テーブル上には四十分足らずとは思えぬほど豪華すぎる料理が並んでいた。生ハムのカマンベールフライ、コンビーフのリエット、ツナと明太子のブルスケッタに、胡瓜のナンプラー和え。料理が趣味だと公言するいずみによって簡単に説明されたつまみたち。彼女が提供する食卓の華やかさには、一年経ってもまだ慣れない。

「とりあえずビールにする? ワインから始める?」

「ビールを貰おうかな。いずみは」

「私は赤を一杯だけ付き合う。時間も時間だし」

 僕はバスタオルで髪を拭きながら彼女の発言を鼻で笑った。

「この間、ウーバーイーツで爆食動画をアップしてた女とは思えないな」

「あれは企画だから仕方なくってだけ。茉莉もやってみたら? 一万円大食い企画」

「僕のチャンネルはそういう方向性じゃないから遠慮しておくよ」

 卓に着き、グラスに注がれたビールとワインで乾杯した。まだ二十五歳とは思えぬほど品があるいずみの姿に見惚れながら、ブルスケッタを抓んで一口で頬張る。こんなに手軽なのに、どうしてこれほど美味しいのだろうか。独り暮らしの頃は外食が多く、自炊とはほぼ無縁の生活だった。幼少期から家庭の味というものに所縁がない僕にとって、料理上手な母をもったいずみの手料理は僕の胃袋を掴んで離さなかった。

 片山いずみとの出逢いは一年半前、松平颯馬まつひらそうまが開いたパーティーの席で隣り合わせたことがきっかけだった。松平の息が掛かったクリエイターが集合するその会で、僕といずみは“表現者”という一つの括りによって半ば強制的にカテゴライズされ、繋がりを持たされた。その夜は僕らの他に、新人映画監督や某出版社で新人賞を獲った漫画家志望者、陶芸家や料理研究家の卵に、舞台役者などが揃っていた。全て、松平の嗅覚が働いた次世代を担うであろう表現者たち。僕らは松平の援助によってコンサルティングされ、精力的に活動範囲を拡大していくいわゆる同志にあたる存在だった。

 いずみは配信系インフルエンサーの畑で育った新人タレントだった。テレビ出演は多くないが、動画サイトで美容系ブロガーとして韓国の格安通販服を紹介したり、プチプラ化粧品のメイク動画を上げたり、あとは旅行や、タレント業の舞台裏などの日常を武器にした動画で、ティーンを中心に注目を集めていた。たまに同業のインフルエンサーとコラボし、ユーチューバーらしい企画も行う。女性支持を受けやすいコンテンツと、男性支持を獲得できるビジュアルの強みを松平が上手く戦略化し、彼はいずみを五十万人登録者のチャンネルまで約三年で育て上げた。片山いずみは自分が手掛けたクリエイターの中で過去一番の傑作だと、事あるごとに松平は嬉々として僕に自慢した。

 僕が松平に目をつけられたのは、次世代の日本人アーティストを紹介するウェブ記事に取り上げられたことが起点となった。後に松平からSNS宛てにダイレクトメッセージを貰い、交流が生まれた。

「俺が桧山茉莉の絵を次のステージに連れていきますよ」

 個人でポートレートカメラマンとしても活動している松平は、初めて僕へ連絡を寄越した日に、取材と称した撮影会の中でそんなことを口にした。僕より二歳下の松平は話を聞けば聞くほど野心に満ちており、今時珍しい意欲に満ち溢れる男なのだと素直に感銘を受けた。まだ若いのに、というほど若輩でもないが、ここまで何者かになることへ必死な姿を見せられると、僕の中であまり大きくはなかった顕示慾や承認慾が触発されていくようで、初めは疑心暗鬼ながらに、段々と松平の口車にも上手く乗せられていった。

 実際、松平は僕を売るのが上手かった。SNSのマーケティング戦略に強く、僕のルックスと作風を最大限に活かした投稿で拡散力を高め、二十代から四十代の女性層の支持を順当に獲得。松平主体で青山のスペースを借りて行った、僕の絵と彼の写真によるコラボ展示会『アン・オン・アンフェール』は、三日間という短い開催期間ながら客足は想定の2・5倍にも及ぶ盛況に見舞われた。

 考えることが億劫で、ただ絵を描いていたかった僕には松平の存在が有難かった。彼のおかげでいずみにも出逢えた。全てを失ったつもりでいた僕を救い出し、何者かに昇華させ、世間の人間に周知させた第一人者は紛れもなく松平颯馬なのだ。感謝してもしきれない恩義に対しては、現在、松平の依頼通りに絵を描くことで対価を払っているつもりでいる。



「いずみはさ」

「うん?」頬杖をつきながらワイングラスを揺らしていたいずみと目が合う。「なに」

「僕がこうやって君の部屋を出入りしてるのが週刊誌に撮られたらまずいんじゃないかな。ファンは怒るだろうし、それも相手が僕みたいな奴だと一番気に障るんじゃないかな」

「ファン?」フォークで胡瓜を突き刺したいずみが笑う。「そんなもの・・・・・と茉莉を比較なんてするわけないでしょ。私は五十万人の登録者とか、八十万人のフォロワーを失ったとしても、目の前にいる茉莉を失いたくないからね。つまんないこと言わないで」

「それ、必死に稼いだお金を君の生配信へスパチャしてる人が聞いたら発狂するだろうね」

「たかが数千、数万円でしょ。傲りが過ぎるのよ、アイツら」

 しゃくしゃくと胡瓜を齧るいずみの悪姫らしい表情。

「全てを手にした女に似合う、可愛くない発言だね」

「それ、貴方のパトロンである私に向けていい言葉だと思ってるの?」

「ごめん」グラスを掲げ、再び彼女と鳴らす。「僕の唯一の、パトロン様にね」

「まあ、一生パトロンでいたいわけじゃないけどね?」

 後ろ髪を引くような言い回しで僕を誘ういずみを無視し、残っていたビールを煽った。それからは酒をウイスキーに切り替え、彼女の話が鼓膜に障らないようせっせと酔うことに注力した。ひどい深酒をするといずみに注意されるから、ここでは響の水割りを二杯でなんとかセーブした。どうせ明日、松平と呑む際に死ぬほどテキーラを入れられるのだ。赤ワイン一杯程度で酔うはずもないのに、機嫌が良くなったふりで僕との未来設計を淡々と語るいずみの声だけは必死に遮断しながら、手の込んだ肴をつまみにちびちびと琥珀で舌を濡らした。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?