『さよなら幽霊ちゃん』の感想7つ、そして生について
漫画『さよなら幽霊ちゃん』のネタバレを含んでます。
1.
最近、まんがタイムきららを読んでいると、連帯でしか解決することができないのか…と思うことがある。ここでいう連帯とは、あるコミュニティによる繋がりのことを指す。あの『ぼっち・ざ・ろっく!』(きららMAX)でたとえると、バンドを組む、ということが連帯になる。独りではままならない現実をサヴァイヴしていくには、他者と支え合うほかない、のだろうか。
2.
そもそも、「まんがタイムきらら」という雑誌は〈日常系〉を標榜しており、ほとんどの場合(もしかしたら、全て?)はコミュニティによる繋がりがストーリーの核、世界を動かしていくための基盤になっている。
『まちカドまぞく』(きららキャラット)の作者である伊藤いづも先生は〈日常系〉という言葉に対して下のように言及している。
避けて通ることができない普遍的な日々の営み、つまり、衣食住や他者とのコミュニケーションを通して、変化していく登場人物たち。そこに焦点を当てたものが〈日常系〉である、という見方は、感動を覚えるほどに的を射ている。たしかに、きららでは(たとえ非日常であっても)避けることのできない日常に向かい合い、四苦八苦しながら、あるいは自由に乗りこなしながら、変化し、生きていくキャラクターの姿を幾度も見てきた。
この確からしい視点は、その確からしさゆえに読者のなかで逆転が起こる。
「避けて通ることができない普遍的な日々の営み、それを通して変化していく心の機微や関係性に焦点を当てた作品」=「日常系」
という等式が成立したとき、
「日常系」=「避けて通ることができない普遍的な日々の営み、それを通して変化していく心の機微や関係性に焦点を当てた作品」
読者の脳内ではこのように逆転が可能になる。
この逆転のなかで、読者は「まんがタイムきらら」に掲載されている個々の〈日常系〉の作品に等式の右辺を浸透させつつ、作品を読み、解釈していくことになる。読者は新たな〈視点〉を獲得したが、それが暴力性をもって機能することを予期できただろうか。
3.
ひとつ、私の日常系(まんがタイムきらら)に対する見方に大きなインパクトを与えた作品の話をしたい。Sugar.『さよなら幽霊ちゃん』。まんがタイムきららフォワードで連載していた漫画だ。全3巻。3巻の帯には「幽霊と死と、そして生についての物語」と書かれている。きららにおいて〈死〉を取り扱う作品は少なくない。それは、〈日常〉と〈死〉の距離は決して遠いものではないからだ。〈死〉もまた、人である以上避けて通ることができず、常に眼前に立ちはだかっている。〈日常系〉はときに、そのことをわれわれに主張する。われわれは、〈死〉に対してどのように向かい合えばいいのだろうか。
4.
登場人物のひとり、源氏優莉は自殺した。学校の屋上からの飛び降り自殺だった。時系列は過去にあたる。源氏優莉の自殺についての真相は14話「わたしが死ぬまでの話」にて、彼女自身が望んで行ったものだと判明する。
きららがもつ〈日常系〉というフィールド、そして読者が逆転のなかで獲得した〈視点〉に圧し潰されたキャラクター、それが源氏優莉なのだ、と思った。「まんがタイムきらら」に対するメタ的なカウンターとして存在しているような。
コミュニティによる他者との繋がり-連帯では彼女が本当に救われることはなかった。自殺というアクションが唯一、彼女を苦しませる〈日常〉、そして自分自身から脱出する手段として示されている。
間違っているのだろうか。
5.
過去彼女が望んで行った自殺という選択は、直接伝えられたわけではないが、別の登場人物にかけられたこの言葉によって間接的に尊重される。源氏優莉の選択が望んだものであるならば、その結果が死であっても尊重されるべきなのだ、という描写が見せる態度はとても誠実である、と思う。
6.
われわれは〈日常〉のなかに残された。
生きていくことができなかった彼女は世界を去り、物語が完結する、なんてことはなく、登場人物たちの、あるいはわれわれの〈日常〉は続いていく。
残された者たちが死者に対してできることはもう何もなく、ただ思いを馳せるのみだ。けれど、それがすべてだった。
残された者たちが生きていくことを選ぶならば、〈日常〉に向かい合わなければならない。他者と支え合ったり、逃げたりもしながら、どうにかして〈日常〉を生きていく。
(もしくは、新しい〈日常〉の形を創造する。)
それが、今、を生きているわれわれができることだと思う。
7.
生についての物語は、まだ余白を十分に残している。
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