いちばんこだわってるのは自分。
地元の大阪に帰ってきました。
東京ってほんと、よそ者の集まりだったな〜って思う。
そして地元はどこまでも下町で、この町から出たことのない両親を筆頭に、この町にずーっと住んでる人だらけ。
住んでいた10代の頃から、地元の人との交流はほぼなかったから、今戻ってきたところでご近所さん付き合いがあるわけではない。
なのに、なのに、なのに。
誰かに、帰ってきたの?と言われるのが怖いと思っていることに気づいた。
まだ祖母が生きていて施設に入る前や、母親が働いていて地域社会と接点があった頃、私は「東京でバリバリ働いて管理者もしている娘さん」として会話に登場していた。
その私が、大阪に帰ってきて、両親と同居する。
40を過ぎ、
結婚せず、
子どももおらず、
両親と同居するために帰郷した娘さん。
と思われるのが恥ずかしかった。
なんていうか、
負け犬ぽくて。
実際の自分は全然負け犬じゃなくて、結婚とか子どもとか、しててもいいしいてても良いんだけど、今現在、してなくていない人生を生きている。
愛する人がいて、でも、今やった方がいいことを考えて一旦離れてみて。
そしてそれを楽しんでいて、してなかったりいなかったりするからこその生き方していこうと思っている。だからこそここに帰ってきた。
なんだけど、この地元にいる人たちはきっと、
「〇〇さんとこの娘さん、40過ぎて東京から帰ってきたみたいやわ〜」
「結婚してへんし、子どももおらんみたいやで〜」
「さみしいし、かわいそうやなあ」
って、思うだろうし、そういう風にしか考えられないんだろうなって。
そんな風に思われるの嫌やし。違うし。
そして、地元生活が数日過ぎてみて、あー、そこにこだわってるの自分だよ。自分だけだよって分かってきた。
誰にも何にも言われてないのに、自分で勝手にそう思って嫌がって。
そもそもが、ご近所付き合いなさ過ぎて、家族以外誰とも話してないし!
引きこもり両親万歳!
こうやって、自分の考え方に縛られてることって色々あるんだろうな。
今までは「そうじゃないの、これはね、こう思うからこうするの」っていちいち表明しようとしてたけど、今はもう、それすら、どっちでもいいよね。
多分ずっと、自分が自分のこと分かってなかったから、『分かって!』『私を分かって!』って悲鳴のように発信してたんだろうな。
自分が自分の思うようにやってれば、時間がかかっても伝わるもの。
『幸せです!』『楽しいです!』『充実してます!』って、わざわざ言う必要のない。生きてるって、何があってもなくても、それだけでスゴイことだし、それだけでしあわせな事だって感じるようになったから。
でもこれからはまた、わざわざ言ってみようと思ってる。伝えるってそういうことかなーって思うようになってきたからね。
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