須藤猛の怪奇事件簿 Episode 1 楓 前編

Episode 1 楓

 絶望した。

 絶望も、一定のラインを突き抜けると自殺願望に変わる。

 人生、何をやっても駄目な時というのがある。それが、一年、二年、三年と続くと、谷底にいるように思えてくる。抜け出すことのできない、奈落。

 奈落で必死に藻掻くが、手にできるのは空虚のみ。必死に藻掻こうとする姿は、時に人の嘲笑すら誘う。やがて、人生に幻滅し人は自暴自棄になる。自暴自棄と言っても、そのパターンは様々だ。酒に走る者、女に走る者。ありもしない望みにすがり、借金をしてまで博打を打つ者、様々だ。

 その中の一つ、人生に絶望し、未来に何の希望も無いものが辿り着く終着点がある。それは、自殺だ。

 須藤猛は、人生に絶望した一人だ。

 入学するよりも、高卒で就職をした方が良いとさえ言われる底辺大学、通称Fラン大学を卒業した猛は、就職も上手くいかず、就職浪人をしていた。

「大丈夫、猛なら、きっと大丈夫よ!」

 半同棲している武田美代。高校時代から付き合ってる彼女だけは、猛の味方だと思っていた。就職し、ある程度生活が軌道に乗ったらプロポーズをしようと思っていた。だけど、就職活動が上手くいかない猛を、美代は見限った。いや、見限ったと言うよりも、ずっと前から、恐らく大学に入ってすぐの頃から、見放されていたのだろう。

「結婚を考えてる人がいるの」

 満面の笑顔を浮かべる美代。突然の事で、思考がおいついていかない猛を尻目に、美代は一人の男性を紹介した。その人物は、あろう事か猛の親友だった。

「悪いな、猛」

 口ではそう言いながらも、顔には笑顔を浮かべていた。

 唯一無二の親友と恋人に裏切られた。打ち拉がれ、落ち込む猛。猛は、同棲していたアパートを半ば強引に追い出され、路頭に迷った。

 帰る所はない。厳格な両親は、望んだ大学に行けなかった猛を半ば勘当する形で家を追い出した。利口で要領の良い弟が二年前に有名国立大に合格したとだけ、当てつけのように連絡があった。

 少ないお金を握りしめた猛は、導かれるように電車に乗り、バスへ乗り換えた。一度、二度とバスを乗り換えると、多かった人も徐々に少なくなった。車窓の眺めも、都市部から農村部へ入り、やがて山道へ入っていった。

 最終的に、バスには猛ともう一人、坊主が乗っていた。袈裟を身につけているため、坊主だと分かるのだが、笠を目深に被っているため、年の頃は分からない。ただ、僅かに除く顎の先から、若そうだと言うことは推測できる。

(坊さんか……ちょうど良いかもな)

 猛は再び車窓からの景色を眺めた。

 バスは急なカーブを繰り返しながら、深い山の中へと分け入っていった。山間はひっそりと静まりかえり、まだ夕暮れ前だというのに薄暗かった。

 刻迷峡ダム前というバス停で降りた。

「次のバスは三時間後になりますけど」

 手ぶらで降りようとした猛に、運転手が心配そうに声を掛ける。猛は「大丈夫です」と、頭を下げて下車した。猛は黒い排気ガスを出しながら走り去るバスを見送った。一瞬、後方に乗っていた坊主がこちらを見たような気がしたが、猛は気にせず歩き出した。

 ひんやりとした山の冷気が、空から振ってくるようだ。もう一枚羽織ってくるべきかと思ったが、すぐに無駄なことだと思い直した。

 ひっそりとした山奥にある刻迷峡ダム。そこから少し下流に行った所にある桟橋は、知る人ぞ知る、自殺の名所として有名だった。大学に入り、友人達とオカルトスポット巡りをしたときに、一度訪れたことのある場所だった。

 曰く、鎌倉時代、この地域に住んでいた刀匠が愛娘の命と引き替えに一振りの妖刀を生み出し、その妖刀は数多の命を奪った。

 曰く、戦国時代、領主が財宝を隠し、その在処を秘匿するため関係者を皆殺しにした。

 曰く、江戸時代、大きな飢饉があり、飢えた村人は弱った村人や旅人を襲い、人肉を貪り食った。その後、幕府より討伐隊が結成され、村人は全員惨殺された。

 曰く、明治時代初期、ダムの底には村があり、そこで大量殺人事件が起こった。

 どの話も真偽は確かではないが、昔、この沢で何かあったのは確実だった。事実、この橋からの飛び降り自殺は年に数回あり、橋の手前には自殺を抑止する看板が立てられているほどだ。

『命を大事に。飛び降りる前に好きな人の顔を思い出して』

 猛は看板を鼻で笑った。好きな人は、親友に寝取られた。今頃、親友と二人仲良く結婚の話でもしていることだろう。両親のことも考えたが、両親からは期待も愛情も与えられた記憶が無い。大学時代も、生活できるギリギリの資金援助をしてもらっただけだ。それは愛情ではなく、親としての義務からだと分かっていた。

 誰も自分を必要としていないし、助けてくれる人もいない。

 何をやっても上手くいかず、生きているのが苦痛なだけだ。かといって、この逆境をバネに頑張ろうという気概だってない。ないないづくしの人生だ。だったら、もう終わりにしても良いだろう。せめて、自分の死を持って、元カノと親友に罪悪感の一つでも与えられれば御の字だ。

 猛は看板の横を通り過ぎ、橋の中頃まで来た。

 大量の水分を含んだ冷たい風が吹き上げてくる。

 背後にはダム、前方には渓谷。覗き込むと、遙か下に緑色の水が轟々と音を立てて流れている。流れは強いが細い沢だ。沢から大きな平べったい白い岩が覗いており、まるで此処に飛び降りてくださいと言ってるようだ。

 太いワイヤーの手すりを捕まった猛は、深呼吸をする。冷たい空気が肺から体内に入り、体の体温をグッと下げるようだ。手足が震える。過去のことを振り返る余裕はないし、その必要も無い。

 過去も未来も、猛には必要なかった。今の猛に必要なのは、覚悟。ここから飛び降りて、自らの命を絶つ覚悟だけだ。

 不安定なワイヤーを乗り越えた。少しでも動けば落ちてしまいそうな狭い足場。吹き上げてくる風は、人のうなり声のように聞こえてくる。

 猛は唾を飲み込んだ。ワイヤーを握りしめる手に感覚はない。荒い呼吸を繰り返すが、呼吸をする度、体の体温が低下するようだ。奥歯がカチカチと音を立て、脇の下にイヤな汗が流れ落ちる。

「俺は死ぬぞ……死ぬんだ……こんな人生……止めてやる……!」

 そうは言うが、なかなかワイヤーから手が離れない。足もくっついてしまったかのように動かない。左右を見てみるが、やはり誰もいない。助けてくれる人は、いない。

 いや、必要ない。猛は自殺する。ここで命を絶つ。だから、誰かに看取られる必要も、止めてもらう必要だって無い。

「死ぬぞ……! 死ぬぞ……!」

 膝を曲げ、ジャンプの体制を取る。だけど、手が離れない。意識ではなく、本能で死ぬのを拒否しているかのようだ。

 はやく しね

 風に乗って声が聞こえてきた。驚いて猛は振り返る。目の前には。スーツを着た男が立っていた。細くやせ細った男。手足は変な方向にねじれており、頭蓋の半分は砕けていた。何よりも猛を恐怖に叩き落としたのは、何もない眼窩だ。本来瞳が入る部分は、黒い虚ろが穴を開けていた。

「あ……!」

 見えない手で背中を押されたようだ。あれほどまで強く握っていた手がワイヤーから離れ、猛は冷たい風を全身に受けながら、沢から突き出している白い岩に落ちていく。

 死ぬ。と思ったかどうか分からない。ただ、猛の意識は落下の無重力と風を感じ、岩に墜落する一瞬、強い衝撃を全身に感じただけだった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?