亥の子餅

確か水曜日。はお茶とお花のおけいこであった
そのころは悩みが多く
拘束される二時間弱は
心静まる時間などではなくて単に焦ってしんどい時間だった

心がそこになかったので覚えも本当に悪かった
ありえないほど長い期間、略盆手前ばかりで少しお稽古が進んでも
私は風炉が終われば風炉のすべてを忘れ
炉が終われば炉のすべてを忘れた

知識と経験は、次の季節まで持ち越されることなく
釜の場所がちがうので、座る向きが変わり、点前も変わるのだが
すべては半年でリセットされるのだった。
それどころか先週の内容も今週はリセットされて忘れていた、くらいだった。

そんなさまであったが、お稽古の時のお菓子は楽しみであった
粽の頂き方を教わったりするので季節の菓子が供されるのだが
とらやの羊羹の頂き物があったりするとそれが出されて私はがっかりしていた。
羊羹、丁稚羊羹と水羊羹以外は嫌い。
先生が喜ぶから自分も盆暮れには桐箱にはいったとらやの羊羹を持って行っていたのだけれど。

思い出したのだがその時には大丸で買う
大丸は「大丸さん」高島屋は「高島屋はん」で先生の中ではっきりした序列があったのである。大丸の包み紙が重要である。(後年大丸が大丸松坂屋になったとき最初に思い出したのは先生のことでした。どうおもってらっしゃるだろう)。

さて炉開きの時には亥の子餅であった
私はもちは嫌いなのだがこれは薄くて上品なもちの背中に三筋の焼き入れがしてあって実においしかった
粒あんだったと思う
もしかしたらもちではなく求肥だったのかもしれない
記憶はあいまいでとにかく当時和菓子がそう好きでもなかった私が夢中になるおいしさだったことだけがはっきりしている。

先生の所には菓子屋がお稽古用のお菓子を浅い木の箱に入れて持ってくるのであった
お稽古用に小ぶりに作ってあるのが常で
その小ぶりなさまがさらに好ましかったしもっとおいしく感じさせたと思う

その菓子屋がお店を構えていたのが当時通っていた学校から先生のところに来るまでの
御所にのめりこんだような形の場所だったと思う。
お稽古に亥の子餅があった日は私は帰りにその菓子屋によって亥の子餅を買った。
お店のお品だからレギュラーサイズでお稽古のより1.5回りくらい大きくてそれは残念だった

何年ものちあとから何回とおってもその店がわからないのである。
お茶の先生は亡くなった
お茶の先生と友達であった祖母も亡くなった。
そのあたりに実家のある母に聞いてもあいまいである。

いくつかの古いお店で亥の子餅と銘打たれた菓子を買ってみても
全然違う。

花びら餅など
もちあり求肥あり味噌の具合ありごぼうの塩梅あり
いろんなバリエーションを楽しんで認めることができるのだけれど
亥の子餅はちがう

自分の中で固有名詞になるお菓子というものがあるのだと思う。
私の場合亥の子餅がそれである。

その後私は糖質セイゲニストになったのであっても食べないのだが
どこに行ったら手に入るのかわからない、もう手に入らないのかもしれない
という思いが
お茶お花のお稽古を全く楽しめなかった当時の自分への思いと重なって
「残念だ」「未練である」という感情につながった記憶になっている。

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