黒い花の屍櫃(かろうど)・7 長編ミステリー
『黒い花の屍櫃・1』はこちらから
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小平駅に着いたのは午前十時過ぎだった。夕食から約十四時間が経過し、オートファジ―も発動していたため、早めのランチを摂ることにした。通り沿いのうどん屋で山菜うどんを掻き込み、アトリエのチャイムを鳴らした。ドアから顔を覗かせたのは榊だった。
「きょう久利生は仕事でいないんです。何か伝言があれば伝えときますけど」
榊は黒いツナギを着ていた。絵を描いていたようだがツナギに絵の具が飛び散った跡はなく、油絵の具の匂いもしない。
「久利生君が長山恵里香さんと知り合いだったって聞いたから、ちょっと長山さんのことを訊きたかったんだ」
「長山さんが、どうかしたんですか」
榊は長すぎる前髪を掻き上げた。涼しげな目元が際立つ。
「榊君、長山さんと知り合いなんだね。長山さんが『sorbet』の会員だったのも知ってるかい?」
「ええ。あの、ちょうどコーヒーを淹れたところなんで、よかったらどうぞ」
榊はドアを大きく開いた。アトリエに入ると、コーヒーのいい香りが桐生を包んだ。璃子は珍しそうにアトリエ内を見回している。
「あれが……黒い花……?」
璃子は久利生の黒い花の箱に視線を留めると、吸い寄せられるように作品の前に近寄った。『FINDER』の記事を読んで知っているはずだが、写真で見るのと実物を見るのでは印象が違うのだろう。作業台の上に、葉書が積んである。
「榊さんと久利生さんで、作品の展示をされるんですね」
璃子は葉書を覗き込んでいる。
「ええ。明日からなんで、よかったらいらしてください。場所はここの四階にある早見さんのお店です。ふだん、昼間はお休みなんですが、展示中は開けてもらうんです。夜は食事と酒を楽しみながら鑑賞していただけます」
榊は流し台の前に立ち、ピッチャーに出来立てのコーヒーをカップに注いだ。トレイにカップを三つ載せ、桐生と璃子にコーヒーを勧めた。
「久利生君の作品は、みんな立体なのかな」
桐生はイーゼルにセットされたキャンバスの絵を見ていた。前回見た青白い肉体の何かは銀色の長い蔦に絡まれ、大きな目を潤ませている。榊は桐生の隣に立ち、コーヒーの載ったトレイをスツールに置いた。榊に礼を言い、桐生はカップを手に取った。
「久利生は大学にいた頃からずっと、箱に囚(とら)われてるんです。最初の作品は『悪の聖櫃』っていってたな。ヨブ記の抜粋をその箱に入れてましたね」
「それ、どんな言葉だったか覚えてるかい?」
「よく覚えています。俺自身、考えさせられましたね。〃人は神の前に正しくありえようか。人はその造り主の前に清くありえようか〃。そう印字されたプレートが、箱の底に貼り付けてありました」
「それで、いまは黒い花を作ってるってわけか。久利生君は、本当は悪魔を受けいれているとは考えられないかい? 人は、神の前で清く正しく生きられないって思ってるとか」
ここへ来る途中に璃子が話していた仮説を思い浮かべた。久利生は悪魔を受け入れているが、一方で彼のなかにいるもう一人の久利生は悪魔と『sorbet』を否定しながら自分だけの神を目覚めさせようとしている。その別人格がR・Jだとは考えられないだろうか。
「誰だって川瀬神父や有沢神父のように、神様と一緒には生きられないですよ。でも、少しでも正しく生きようと努力してるんじゃないですか。苦しいけど、それを乗り越えるために芸術があるんだと思います。桐生さんたちは、どうして長山さんのことが知りたいんですか」
「亡くなったんだ。日曜日に」
新聞社から入手した情報によると、長山恵里香の死亡推定時刻は桐生たちが遺体を発見する前日、日曜日の午後四時から六時の間だった。
「……それって、事件ってことですか。つまり、殺された……」
榊はよろよろと後ずさった。
「長山さんの遺体を発見したの、私たちなんです。榊さんから見て、長山さんはどんな女性でしたか」
璃子は黒い花の箱から離れ、トレイの上のコーヒーカップを掴んだ。
「久利生がここへ連れてきたんです。長山さん、歳は二つ下でしたけど、俺なんかよりずっとしっかりしてました。親元を離れてOLとして働いていて、結婚を誓った恋人もいたそうです。でも、事故で亡くなったって聞きました。彼女、実家が山梨で久利生と同郷だったんです。だから久利生は、最初から長山さんと波長が合ったのかもしれません。彼女が抱えていた悲しみを、自分のことのように感じていました」
榊は小さく息を吐いた。前回訪ねたときに隅に積み重ねられていたスツールは、部屋のあちこちに無造作に置かれている。榊はイーゼルの斜め後ろにあった二脚を中央に寄せ、桐生と璃子に勧めた。
「長山さんが誰かに恨まれてたなんて話は聞いてない? 『sorbet』を恨んでる元会員とか」
桐生はスツールに座り、手帳に久利生と長山恵里香が山梨出身だと書き付けながら問い掛けた。
「そんな話は聞いてません。久利生がいろいろ相談にのって、『sorbet』も長山さんから参加したいって言われたみたいです。その頃、久利生も体調が悪くて精神科で調べてもらってたんですが、悪魔に憑かれてるってわかって『sorbet』の会へは行かなくなりました。それからは長山さんもアトリエに来なくなったんで、元気にしてるとばかり思ってました」
榊はカップを手に取り、イーゼルの前に置かれたスツールに座った。
「悪魔の声が聞こえるようになったのは、一年前からだって久利生君から聞いてるよ。天使と悪魔の彫刻を彫ってたらしいね。病院で血液検査やMRIも受けたけど、疾患や脳の機能不全は見つからなかったんだ。それで、精神科を受診したんだよね」
桐生は初めてアトリエを訪ねた時の会話を思い返した。
「悪魔に取り憑かれてるとわかったのは、いつ頃のことですか」
璃子は桐生の隣に座り、榊とその後ろにあるキャンバスを見比べている。
「去年の十月だったと思います。三人で紅葉を見に行こうって話してましたから」
榊は視線を落とした。指先を温めるようにカップを両手で包んでいる。
「久利生君が悪魔祓いを受けるようになってから、まだ二ヶ月くらいなんだね。榊君は、久利生君とは長い付き合いなんだよね?」
手帳に「悪魔祓い・二ヶ月」と書き足し、榊に視線を向けた。
「大学に入学して最初に喋ったのが久利生でした。オリエンテーションの席が隣だったんです。説明を聞いてるときに配られた用紙にペンで落書きしてたら、あいつが俺のほうを見て『いいね』って言ったんです。その時、あいつの顔を見て驚きました。現実離れした幻想の世界の貴公子とでも言ったらいいのかな。俺が描いてたのが、ヨカナーンの首を盆に載せて踊るサロメだったせいもあるかもしれないけど」
「もしかして、榊君はビアズリーが好きなのかい?」
桐生は父の書棚にあったビアズリーの画集を思い浮かべた。ビアズリーは『サロメ』の挿し絵を描いていたことで有名で、画集の表紙もヨカナーンの首を持つサロメだった。優美な線で描かれた人物はどれも個性的で、背景の花や模様は独特の華やかさとひんやりとした空気を持っている。
「とても好きです。白と黒の対比は美しいだけじゃなく、力強いエネルギーを感じます。それでいてどこか幻想的な広がりもある。俺の原点ですね」
榊はイーゼルに立て掛けられたキャンバスを見遣り、コーヒーを啜った。
「『サロメ』って、『マタイの福音書』と『マルコの福音書』にあるヘロデ王の話に基づいて書かれたと言われてますよね。榊さんは聖書に詳しいんですか」
璃子の問い掛けに、榊は肩を竦めた。
「詳しくはないですよ。自分なりの解釈で好きなところだけを読んでるって感じです。聖書を読んでいると、神と悪魔は同一人物ではないかと感じることがあります。『創世記』ではアブラハムに息子のイサクを生贄にしろと命じたり、『出エジプト』ではエジプトに住む者で過越の生贄を捧げなかった家のすべての初子を皆殺しにしています」
榊の話をメモしていた桐生は、手を止めた。
「過越の生贄は、羊だったよね?」
「傷のない一歳の雄でないといけません。詳しくは『出エジプト記』に書かれています。以前はここにも置いてあったんですが、久利生が拒絶反応を示すようになって持ち帰りました」
「ネットで調べたところ、『子羊は三月十四日の夕暮れに屠(ほふ)り、家族で食べる』と書かれています。イスラエルの民は、その血を家の二本の門柱と鴨居に付けることで神の災いから逃れられたようですね」
璃子はスマートフォンの画面に視線を走らせている。
桐生の脳裏にR・Jからの手紙の一文が浮かぶ。
――真の儀式とは、神を目覚めさせるためにあるのです。
R・Jのいう儀式とは、生贄を神に捧げることを意味しているのではないのか。長山恵里香の死が神への生贄だとしたら、遺体を黒い花のなかに埋めたことには何か意味がある。単に久利生の作品になぞらえただけではない。
「……もし仮に、黒い花のなかに死体を埋めるという儀式があるとしたら、いったいどんな意味があると思う?」
桐生の問い掛けに、榊は視線を巡らせた。久利生の黒い箱に視線を留めると、「浄化かもしれない」と呟いた。
「『創世記』には、〃あなたは顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰(かえ)る〃とあります。黒い花は、土をより神聖なものに例えているのかもしれない。長山さんは、黒い花のなかで亡くなっていたんですね?」
榊の問いに、桐生は頷いた。
「体の一部が切り取られてませんでしたか。もし長山さんが神への生贄として殺されたのなら、心臓を捥ぎ取られていたとか、臓器が失くなっていたんじゃないですか」
「……そういえば、ニットには切り裂いたような傷があったけど……まさか、心臓が抜き取られていたのか」
胸に付けられた十字の傷が何を意味するのか、警察から知らされていない。死因は失血死とだけ聞かされていた。
「臓を抜き取るなんて、そんなことをして犯人はどうするつもりなの。まさか臓器売買が目的の犯行とか……」
璃子は飲みかけのコーヒーをトレイに戻した。
「お二人は、大英博物館のメキシコ展示室にある石のナイフをご存知ですか」
榊に訊かれ、桐生は首を振った。璃子は早速スマートフォンで検索を始めた。
「柄に戦士の彫刻が施され、トルコ石やクジャク石が象嵌されています。そのナイフは、十五世紀のアステカで使われていました。『聖なる殺し』のために」
「動物を生贄にするときに使ってたんだね」
アステカでも子羊を生贄にしていたのだと思った。隣で璃子が「ひいっ」と声を漏らした。
「アステカ人は、かつて神が自らを犠牲にし、血を流して人間を作ったと信じていたそうです。だからアステカの神官は、人間の体から心臓を取り出して神に捧げていました。戦士のナイフは、心臓を取り出すのに使われていたんです」
榊は璃子のスマートフォンに表示された戦士のナイフに視線を落とし、唇を引き結んだ。
つづく